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連載

社会学はどこからきて、どこへ行くのか?

第4回 社会記述のこれから

東京大学大学院情報学環教授 北田暁大〔Kitada Akihiro〕

龍谷大学社会学部准教授 岸政彦〔Kishi Masahiko〕

北田 ここから岸さんのほうから事前にいただいた「社会の進化や変化を語るということが、社会学の『習い性』になっているのではないか?」という問題提起について考えてみたいと思います。つまりなにか充実したものがあって、それが希薄化して、消失していく。こういう図式、たとえば「マスコミから2ちゃんねるの時代を経てLINEへ」みたいな。

 書けちゃう書けちゃう。

北田 でしょう。まったく同じ図式で書けちゃう。この反復性みたいなものってどうなんでしょうね。つまり社会が「t型社会」から「t+1型社会」へと進化するという考えの元になっているものはなんなのか、と。

 この対談のテーマでもありますけど、社会学って大雑把に「なにを結局やってきたんやろな」っていう話ですが、じつは2つのことしかやってないんじゃないか。とくに最近、吉川浩満さんの『理不尽な進化』(朝日出版社)とかの影響もあって、どうしても進化論の話に引きつけて考えちゃうところがあるんですけど、ひとつは大きな時代診断というか、たとえるなら「石炭紀からジュラ紀へ」みたいな「前近代から近代へ」っていう環境の変化ですね。環境の変化を「t型からt+1型へ変わりました」って言う話みたいなことを、ひたすらいろんなバリエーションでやっている。もうひとつは、これも進化論に引きつけて考えちゃうんですけども、適者生存というか、ウェーバーから始まったような議論ですね。

北田 ウェーバーで、適者生存?

 言ってしまえば行為論なんですよ。たとえば、キリスト教にもいろんなゼクテ(教団)があったと。で、こういう資本主義というのがドーンと始まりましたと。始まったというか、まあ近代になって、いろんなゼクテがいろんなエートスを持っている。いろんな種がいて、首が長い奴もおったりとか羽が生えてる奴もおる、みたいな感じですよね。そのなかで「よーいドン」で競争していって、特定のゼクテが生き残った。なぜかというと、そのエートスが、資本主義に適合性があったからだ、と。ウェーバーの言い方だと選択的親和性があったんだと。これは、ある種の主体、行為者がどうやって環境に適応しているかの物語なんです。今でいうとエスノグラフィーの発想ですよね。たとえばポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』(ちくま学芸文庫)なんかでは「ラッズ」なんていうのがいる。一見するとすごく非合理なことをして、学校に反抗している、と。それによって自分が損をするのに「バカだなぁ、なんでそんなことしてるんだ」と。でもラッズからすると、周りの環境にある種適合した行為なんですよね、あれは。それで生き残っているんです、学校世界のなかで。学校世界のなかで適合している行為が、マクロな構造のなかでは実は逆効果へ働いていて、だからそれが淘汰されてしまうんだけれど……というのを書いてたわけですよね。だから、これはある「種族」が、どうやって生き残っているか、生き延びているか、という物語なんですよね。だから、ぼくはこれウェーバーが源流だと思ってるんですけども。そうすると社会学って、要するに2つのことしかしていないんじゃないか。「石炭紀からジュラ紀へ」みたいな「環境が変わりましたよ」みたいな感じで、「前近代から近代になりましたよ」っていう物語か、あるいはある種のハルキゲニアみたいな生物がいてこういう事情で絶滅しましたが、こっちの奴はこうして生き残ったんです、みたいな話。

北田 ひとつには、「時代診断」をしているんだけど、それは要するに環境の変化みたいなので時代区分をしてて、それはこういう「意味」を持っているよ、みたいな分析をしてみせる、と。大澤さんもそうだし、見田先生もそうだし、まあ僕も踏襲しているようなスタイル。

 そうそう。

北田 もうひとつは、そんななかいわばどうしてこんな制度とか人格類型とかが残存したのか、という問い。

 規範とかね。

北田 ある規範とかがなぜ残っているのかというと、「他でもありうる可能性のなかから、ある環境のなかではこれが最適だったから」と事後的に思えるようなかたちになっている。それは、いかにも人間的な選択の話をしているようにみえるけれども、ある種の自然淘汰みたいなものを語っているんじゃないか、ということですね。

 そうそうそう。

北田 なるほど。ウェーバーの話がどこまでそれでいけるかどうかわからないんだけども、仰っていることはすごくよくわかる。順番に、まず「時代診断」のほうに関していうと、要するに「コミュニティとアソシエーション」にしたって「機械的連帯と有機的連帯」にしたって「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」にしたって、要するにこうした「都市化」を問題にするのが社会学の出発点だったとしか言いようがないと思う。ただ、初期の社会学は、みんな見ている現象が一緒で、大都市ができて、われわれが想像しえないほどに人びとの社会移動が激しくなってきて、その変化っていうものがすごくリアルに共有されているということもあると思うんですね。だから、国ごとに多少違うとはいえわかりやすいのは、みんなそれを都市問題としてやっていたから。都市の労働とか貧困とか、そういう問題に取り組んでいた。とにかく流入してきてしまった都市の新しい住人たちが、ひどい衛生環境、ひどい生活形態を余儀なくされ社会に危機をもたらしている、これをどう捉えるか、どう操作するかっていうような観点から、「調査」って始められているわけじゃないですか。

 そうですね。

北田 イギリスでいえば、それがエンゲルスからウェッブ夫妻、ブースとかの貧困調査からスタートしている。そこら辺の人たちがやってきたことっていうのはすごく善意にもとづいているんだけども、激変する大都市に流入してきた人びとの履歴と環境からの、環境への影響をつかもうというときには、やっぱり「昔はある地域とある地域が分離していた。しかし、その分離が決壊して、壁なき都市が発達して社会関係が大変なことに」という捉え方があったわけです。エヴィデンスの質の問題とかそれ以前に、これを把握せずにはいられなかったのが当時のロンドンだった。けっこう面白いのは、フェビアン協会にしてもそれこそウェッブ夫妻にしても、優生学にコミットしてるんですよね。ごく簡単にいうと、優生学っていうと僕らからするとすごく右派的な感じがするけれども、当時は優生学は左派の人も多く、必ずしも「断種」みたいな方向ではないかたちで優生学を使っていた。法や市場、規範と機能的に等価な社会統制の1つの手段みたいなものとして展開していた部分もある。やっぱり時代診断というか、当時の都市化現象がわれわれの想像するよりもはっきりとした形で当時の人びとの前に現れていた、としか言いようがない。シカゴに関してはいうまでもないですよね。1800年代のはじめには数百人しか住んでない村に、19世紀末になってくるとどんどん人が流入して、ニューヨークに次ぐ大都市ができてしまう。ものすごい変化。移民は大量に入ってくる。移民二世だけじゃなくて新移民も入ってくる。交通の要所でもあった。だから都市のなかで起こっているいろいろな社会問題を調べなければ、というところからスタートしている。民族、貧困、そういった問題をどういう風に調整するのかっていう課題が大きくある。日本もそうでしょう?

 まったくその通りです。戦前の「大大阪」における大阪市立大学の調査はその典型です。

北田 日本だってそういう社会問題の多くは「都市化」から出てきている。この、目の前で起こっている変てこな事態を、どういうふうに収拾つけましょうかっていうところから、やっぱり社会学はスタートしているわけです。だから、まず変化の学問であるというのは仕方がない。

 そのときに2つくらい気になって。1つは、要するに僕がすごい気になっているのは、それが思考パターンとして定着しすぎてきたんじゃないか。基本的に社会学が生まれてきたのはどの国のどの都市でも、人口が増えている時期なんですよ。で、要するに社会学の時代診断っていうのはぜんぶ産業化論じゃないですか。

北田 うん。

 産業化と都市化と近代化、この3つ。人口の増大局面において、産業化が進行した時代に生まれた思考パターンなんですよ。なので、基本的には何を言っているかっていうと、固まったものがバラバラになっていってます、ということですね。たとえば都市と農村の区別があったときに、それがなくなってきた、と。みんな都市に集まってきて、ぐちゃぐちゃになっているというふうに見えたっていう、思考パターンがあって、それのバリエーションを繰り返しているだけなんじゃないかっていうのが、すごく気になっていて。たとえばこれから人口は減っていくわけだし。あと、それを使いすぎていて、それこそ「2ちゃんからLINEへ」って言ったときにね、たとえば2ちゃんが村落共同体的にみんなでわいわいしてたのが、LINEになって皆がバラバラになってお互い不可視になってきている、とかね。

北田 誰か書いていると思うよ(笑)。10年くらい前、はてなダイアリーでたぶんそういう話が出るだろうって、予測も出てたし。

 そういうのとはちょっと違うやり方はないのか、と(笑)。もう1つ思ったのは、マルクス主義との距離感をもうちょっと調べたら面白いかもしれない。たとえば近代化論って、ウェーバーなんかでもマルクスに対する距離感があったと思うんですよ。マルクス的な進化論というか、運命論みたいな、時間的な変化のマルクス主義的な説明様式っていうのは、それはそれで強力に働いていて。

北田 うん。

 それに対して、違う時代変化の捉え方とか語り方を提供したのがおそらく近代化論とか産業化論とかだったと思うんですね。で、たとえば社会調査の源流なんかにしても、マルクス主義との距離感で、近代化論とか産業化論みたいな話をして、固定的なものがバラバラになりましたよ、みたいな話を紡いでいったわけでしょ。話を聞いててめっちゃおもろいな、と思ったのは、じつは、たとえば九州大学にいた鈴木広なんかは、マルクス主義との距離感で、実証的な調査をやっていくんですよ。昔の日本の社会学は、マルクス主義からは「ブルジョワ学問(ブルジョワ科学)」って叩かれてて、実証主義的な調査をやっていた鈴木広のような人はそれと距離を広げていかざるをえなかった。

北田 社会学者はいわゆる唯物史観は受け容れられないし、革命とかそういうので話を進めるよりは、むしろ産業化の肯定的側面と否定的側面と、両方をみていかないとまずいよね、っていう立場でやってこざるをえなかった。

 マルクス主義への反動であれ、実際に目にした近代化・都市化の影響であれ、いまわれわれを支配している「固定的なものからバラバラなものへ」っていう時間変化の語り方のパターンとか話法みたいなものっていうのは、そういった文脈があってできてきた、と。でも、同じことがいつまで続くのかなって思います。

北田 その問題意識なんですよね。そもそもの原点、出自がそういう志向で行われているので、どこの国でも社会学っていうものはまず「固定的なものがバラバラになる」「バラバラになったから何かつながなきゃいけない」――この「つながなきゃ」の部分を「社会的連帯」とかって読んだりすると思うんだけど――、「それを模索しましょう」っていうのをずっとリアルに考えてやってきたわけで。

 うん。でも別に、適当なことを言った特定の誰かを批判してるとかでは全然なくて。そろそろ「固まったものがバラバラになっていくよ」っていう話法自体が使えなくなってきてるので、それじゃない語り方ってあるのかな、っていう話をしたい。

北田 「固まってたものが……」じゃないかたちで、歴史比較論みたいなものでやるべきだ、ということですよね。それを模索している人もけっこういらっしゃると思うし、そこを大きな課題として、とくに今の30代くらいの学者で歴史を書いている人のあいだでは「なるべくそれが消失の物語にならないように」っていう問題意識があって、抑制がかかっているなあ、と思う。パターン化された希薄化論は非常に陳腐なものに見えるし、場合によっては有害だったりもするしね。高いものの消失の物語は。そういう意味では転換期に来ているだろうな、っていうふうに思っています。

 どういう転換をするべきか考えると、やはり特定の領域とか社会問題に(非政治的に)コミットして、その特定の問題に限ってそのなかで「こういう時代からこういうふうに変わりましたよ」っていうことをやっていかないと。それを疎かにして国民国家の社会意識のレベルでざくっと「AからBへ」みたいなのはどうかと。たとえば沖縄なんかでそれをやられるとすごく違和感があって。昔は共同体が色濃く残っていて、いまはそれが解体されちゃって沖縄らしさが失われていくみたいな言説は僕はもうコロニアルものでしかないと思う。他方で、沖縄の戦後の歴史をみると、社会変化自体は本当にある。「ある時代からある時代へ」っていうのは、あるんですよ、本当はね。戦後から復帰までは、人口が激増して、那覇都市圏に人が集まって、民間の投資が主導して経済が成長していた。復帰後になると、人口増加がストップして、人口集中も那覇から浦添や宜野湾へと中心が移動する。公的資本形成がリードする形になっていきます。でもこういう実際の社会変化は、簡単に一言でまとめて書けないんですよね。だから、それはプロの歴史家も頷けるようなレベルのものを集めて書かないとならない。

北田 そうそうそう。僕もそう思いますよ。歴史学者がやれないことをやらなきゃいけない。そうすると、社会学ができることのひとつって要するに比較社会学なんですよね。だったら、なんのためにどういう準拠点に基づいて比較をしているのか、っていうことをちゃんと示さなくてはならない。

 うん。

北田 そこで歴史学者と勝負する必要はない。というか、無理。歴史学ってのは、ある種の訓練とある種の「狂気」がないとやってられない領域だと思うんですね。社会学者が類型化することが悪いんじゃないと思うんですよ。ただし、その類型がいかにして、いかなる根拠で、いかなる比較の枠組みに基づいて提示されているかってことをちゃんと明示する。それさえちゃんとやればいい。そのうえで結論として「固まっていたものが溶けた」という話法を禁止する。この2つが守れれば、いい歴史研究は生まれると思う。

 その意味で、やっぱり社会学は普通の学問になるべきなんだけど、他方でそれは難しいことですよね。社会学らしさをどう出していくのか、っていうのは。けっきょく、社会学ってなんだろうっていう。

北田 初期の変動期の社会学が持っていた「調査・分析・処方箋」っていう3点セットの緊張感みたいなものが消えたところで、歴史図式が使われている、というのには反省的である必要があると思う。

 処方箋もね、「だから連帯しよう」とかね。

北田 まあ「そりゃそうだね」っていう。

 緩やかにつながろう、とか。

北田 うーん。そこがね。ただ「代案出せ」って言われても、なかなか難しいところがありますが。ただ、ここがひとつの大きな問題であり、思考停止になっているところだと思います。

 

第5回 社会学における「理解」

 

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『社会学はどこから来てどこへ行くのか』

 

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