性別、人種、年齢、出身地、職業などで、人を社会集団として分類し表象するカテゴリーのこと。それによって、他者を理解しやすくなり、当人もアイデンティティを得ることができる一方、偏見や差別につながるステレオタイプの温床にもなりえる。「大学生」のように、あきらかに社会の制度や人々の相互行為が作り出しているとわかる社会的カテゴリーもあれば、「女性」「子ども」のように一見すると自然なもののように見える社会的カテゴリーもある。
社会の歴史的変動を対象とする経験的な研究を行う社会学の下位領域。マックス・ウェーバー(1864~1920)が起源とされることが多い。歴史的な研究は、一般理論志向の強い構造機能主義が社会学を覆った時期に後退するが、1970年代から80年代にかけて、地域(国際)比較を組み込んだ社会変動の研究が興隆する。日本では、家族や教育など子どもに関わる分野の歴史社会学的研究は比較的さかんで、本書もそれらに多くを負っている。同じ経験的研究領域である歴史学との異同はさまざまに論じられているが、社会学が近代社会の社会事象のメカニズムを考えるものである以上、歴史的な経緯を踏まえることは必要であり、その意味で、すべての社会学は歴史社会学の要素を含んでいるともいえる。
フィリップ・アリエス(1914~1984)は、フランスの歴史家。大学に所属しない「日曜歴史家」であった。政治・経済史から民衆の生活に注目する社会史へというフランス歴史学の転換のなかで、「子ども」や「死」を扱ったアリエスの著作が注目される。『〈子供〉の誕生』(1960)では、「子ども期」の見かたが、生物学的な事実とは別に、社会的に構築されたことを、絵画に描かれた子どもやその服装、学校組織、家屋や家族構成などから論じた。アリエスは王党派の伝統的な家庭の出身で、その議論には、実は旧体制(アンシァン・レジーム)へのノスタルジーが見え隠れするが、アメリカでは1960年代、日本では1980年代の近代批判の時流に乗って受け入れられた。
アリエス『〈子供〉の誕生』などの社会史の知見から、かわいがり教育するという私たちの子どもに対する感情は、歴史的には自明でなく、近代になって構築されたものだとみなされるようになった。そこで構築されたとされる「子ども」イメージは、しばしば近代的子ども観と呼ばれ、家族、教育、衛生など多岐にわたる分野で、近代的子ども観の「誕生」を描く研究潮流が生じた。そこには、近代社会の子どもの処遇が、子どもを救済する一方で、型にはめ追い詰めるものとなっていることへの問題意識があった。ただ、その後の研究の進展で、近代とそれ以前を極端に区別する見かたは克服されている。子ども観を複数形で捉えつつ、各種制度が整い子ども期が「普及」する19世紀末から20世紀初頭以降を重視する視点や、家族と学校に加えて福祉や労働市場との関係から子ども期を多角的に描く視点が重要視されるにいたっている。
近代社会において「標準」「あたりまえ」と考えられ、規範となっている家族を指す学術用語。それらが歴史的には自明ではないという主張を含んでいる。構造機能主義全盛期の社会学では、家族を社会の普遍的な単位と考える傾向が強かったが、アナール派(社会史)に代表される家族史の知見から、近代家族論と呼ばれる近代家族の歴史性・近代性をあきらかにしようとする一連の研究潮流が生じた。近代家族の特徴としては、公共領域から隔離された私領域、情緒的つながり、核家族化、性別役割分業などが指摘されてきた。
ジョン・ロック(1632~1704)は、イギリス経験論の代表的思想家。『人間知性論(人間悟性論)』(1689)、『統治二論』(1690)、『教育に関する考察』(1693)などを記し、社会契約による国家の成立を論じた。人間の自然権として自由と所有を強調し、国民の抵抗権を理論化したことで、名誉革命を正当化し、フランス革命やアメリカ独立戦争に影響を与えた。人間は白紙(タブラ・ラサ、tabula rasa)として生まれ(生得観念の否定)、経験が書き込まれていくという経験論に基づく人間観を提示した。教育論では、子どもの個性を尊重し、ルソーなどに影響を与えた。
ジャン・ジャック・ルソー(1712~1778)は、ジュネーヴで生まれフランスで活躍した思想家。『人間不平等起源論』(1754)や『社会教育論』(1762)、『エミール』(1762)、『新エロイーズ』(1761)などを記した。文明社会における人類の堕落を論じ、自然に帰ることを説く。人民主権論でフランス革命に影響を与えると同時に、自然のなかでの教育を論じた。『エミール:あるいは教育について』に記された子どもの
18世紀末から19世紀前半にかけてヨーロッパを中心に興隆した文学、美術、音楽などにまたがる芸術思潮。理性や合理性、普遍性を目指す古典主義に対し、感性や自然、主観的表現を重視した。フランス革命後の市民革命期に発生した思潮でもあり、自由の希求と同時に現実逃避的性格も持つ。ロマン主義の諸芸術には、ルソーの『エミール』の影響も受け、子どもの未熟さや自然性を肯定的に捉える表象が用いられており、ロマン主義的子ども観と呼ばれる。モラリスト(教訓主義)の子ども観と対比されることもある。ロマン主義的子ども観は、現代まで世界各地の芸術や消費文化の表象に埋め込まれている。
領土と国民を統治する機構である国家(state)を、共通の歴史や文化を共有する国民(nation)が主体となって支える国家形態のこと。国家の主権が国際的に相互承認され、国民主権の概念が成立した近代国家の基本形と考えられてきた。現代では、人の移動が活発化し、外国人排除などの国家の暴力性が自覚されるなかで、「国民」や「国家」概念の歴史性・近代性が批判にさらされている。
ミシェル・フーコー(1926~1984)が『知への意志』(1976)などで提示した、近代社会の権力のあり方を示す概念。自発的に自らを律するように人を規律訓練する「規律権力」(『監獄の誕生』〔1975〕で示された)と、人口や種の集合的・統計的管理を旨とする「生政治」を両極とする。フーコーは、「生きさせるか死の中へ廃棄する」権力だと述べている。子どもは学校等で規律訓練される存在であるが、その処遇の決定には身体や知能、逸脱可能性などに関する確率論的・統計的な知が関わることある。生かしてくれるけれど型にはめられるという両義性を持ち、「子どものため」と「国家・社会のため」が交錯する子ども観というテーマを、日常的理解とは異なるかたちで照らし出してくれる概念といえる。
孤児・棄児・浮浪児など、適切な保護下にない子どもを救済し保護する民間の活動が、19世紀末以降、国家の政策として行われるようになった。やがて、すべての児童の生活保障を行う児童福祉という政策・学問分野へと発展する。貧困や虐待、遺棄や労働、障害、母子保健といった児童問題(子ども問題)を対象とする。日本では戦前期より「児童」という語が用いられてきたが、1990年代以降、子ども福祉、子ども家庭福祉と呼ぶ動きが見られる。
法律に基づいて、国民が義務として、学齢児童・生徒に普通教育を一定期間受けさせる教育制度。19世紀後半に各国で法制化され、年限を延長し、内容を充実させるかたちで現在にいたっている。無償の教育を受ける権利を保障する側面と、国民としての自覚を涵養し道徳教化することで、秩序を維持し、良質で安価な労働力や兵力を供給するという側面とを不可分に含んでいる。しばしば教化の側面が警戒され、児童中心主義教育の主張が繰り返される。
年少者が労働に従事することは産業化以前から多くの社会で当然のように行われていたが、18世紀後半の産業革命以降、子どもが工場や炭鉱などで働かされたり、都市の煙突掃除や靴磨き、花売りなどの非熟練労働を担わされたりした。そのような状況を問題化する感覚が現れ、児童労働(child labor)と批判的に呼ばれるようになった。イギリスで1802年以降整備され、1833年に本格的に成立した工場法以降、児童労働を禁止し、子ども期を保護と教育にあてるための法整備が各国で進んだ。
違法行為や社会的に是認されない逸脱行為を行う年少者を指す言葉。過失を犯す、義務を怠るという意味のdelinquentと年少者を表わす単語を組み合わせ、juvenile delinquent(非行少年)、delinquent child(非行児童)のように用いられる。19世紀半ばまでには、中上流階級で、子どもは家族できちんと養育されるべきという規範が定着する一方で、浮浪したり逸脱行為を行ったりする年少者を問題とする感覚が現れた。日本では「不良少年」と呼ばれてきたが、戦後は「非行少年」という語が主流となった。
政府が行う公共政策のうち、経済の成長や発展を目指して行われる経済政策に対して、人々の生活の安定や向上を目指して行われる政策を社会政策という。古くは16世紀末イギリスの救貧法などの福祉政策、工場法から始まる児童や女性の保護のための労働政策などが含まれる。第二次世界大戦後、福祉国家と呼ばれる体制が整うなか、雇用の安定や公的扶助と社会保険による生活の安定を担う社会政策は、それを支える重要な役割を果たした。
量的方法や質的方法で、社会や社会集団に関するデータを収集し分析する手法。古代より存在する徴税のための人口調査なども社会調査と呼べるが、近代的な社会調査の端緒は、チャールズ・ブース(1840~1916)やシーボム・ラウントリー(1871~1954)の貧困調査に求められる。自由な社会に存在する不平等を可視化し、学問的・政策的な検証につなぐことが求められた。その後、資本主義化の進む20世紀前半のアメリカで、市場調査(マーケティング・リサーチ)や選挙予測等のための世論調査、質的・量的な学術調査が発展した。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、大人とは独立した子どものための診療分野が成立した。誕生から成人期にいたるまでの発育と健康を観察・管理することを目的とするが、年齢により異なる成長度合いを考慮し、互いに影響し合いやすい小さな臓器を扱う点で、大人の患者に対するのとは異なった対処が必要だとされた。保健・衛生・栄養などの領域とも結びついて、20世紀後半までに乳幼児死亡率を極小化させた。
心身が成長していく過程を表わす用語。原語のdevelopment(英)やEntwicklung(独)は、本質が展開して現れてくるというニュアンスが含まれる。20世紀半ばまでは、受胎から成熟までを表わす概念で、とりわけ児童心理学・発達心理学において、発達段階の理論化が試みられた。その後、高齢化社会などに伴い、生涯発達などの概念も提起されているが、子どもの発達という考えかたは日常知にまで浸透している。
ダーウィンの「幼児の伝記風のスケッチ」(1877)の影響を受けたアメリカの心理学者スタンレー・ホール(1844~1924)が、児童研究運動を呼びかけ、「児童学・子ども学(pedology)」という教育学とは区別された学際的学問領域ができあがった。子どもの観察による心理学的子ども理解を軸とするが、民主国家の建設のための教育に資するという目的意識があった。日本には、ホールに師事した
ジグムント・フロイト(1856~1939)によって創始された心理治療の方法。精神症状の原因は無意識にあると考え、それに迫る自由連想法などを用いた。エディプス・コンプレックスなどの幼児期の親子関係が分析者と患者の間に再現されること(「転移」)を重視したため、子ども観にも影響を与えた。子どもを対象とする児童精神分析自体は、娘のアンナ・フロイト(1895~1982)やメラニー・クライン(1882~1960)が発展させた。
人間が成長に従って集団や社会で認められる価値観や行動様式を学習することで、その社会に適応する過程を表わす社会学用語。社会化理論の発展の原動力には、人の発達や適応プロセスのみならず、社会秩序の成り立ちを理論化するという企図がある。そのため、心理学的な発達段階理論を借用して、適応プロセスを理論化しつつ、それを社会秩序の形成や再生産という最終目的に重ね合わせる理論構成が見られる。20世紀後半には、その同化主義志向が批判され、社会化の理論はさまざまに問い直されている。
フランシス・ゴルトン(1822~1911)が1883年の著作で用いた用語で、優良な人間を増加させ、劣等な人間を淘汰することで、人類の遺伝的素質を向上させようとする考えかたを指す。20世紀前半の先端科学の1つとなり、政策にも取り入れられ、多くの国で強制不妊手術などが行われた。ナチスのホロコーストなどと結びつけて、第二次世界大戦以前の思想のように捉えられがちだが、障害者の不妊手術や人工妊娠中絶などはむしろ戦後福祉国家下でさかんになっている。
20世紀初頭にドイツやアメリカから世界に広がった新教育運動は、子どもの自発的な活動や経験を重視する児童中心主義の教育を唱えた。民衆教化を企図する公教育が広がりつつある時代、教科書や教師主導の教育への対抗の意味を持つ。ルソーやペスタロッチ、フレーベルの教育論の20世紀版リバイバルとも考えられる。ケイ『児童の世紀』(1900)をマニフェストとし、デューイの実験学校などが有名。ただし、その「子どもから(vom Kinde aus)」というかけ声もまた、大人の願望の投影にすぎず、真に子どもの主体性を尊重したものとはいえないと批判されうる。
人の誕生、成年、結婚、長寿、死など、人生の節目にあたって行われる儀礼のこと。人類学(民俗学)者のファン・へネップ(1873~1957)が提唱した用語。隔離や葛藤を経る、衣服や名前の変化を伴うなどの特徴を持つ。新たな身分への移行を社会的に示し、移行に伴う不安を避ける機能もある。日本の場合、現在存在する帯祝いやお宮参りにつながる産育儀礼や、七五三につながる子どもの成長を祝う儀礼は、古くよりあった。12,3歳から15,6歳で、髪型を変え冠や烏帽子をかぶる元服(男子)や髪形を変え裳をつける裳着(女子)などの成年式に相当する儀礼も、古代より行われ、かたちを変えながら江戸時代まで続いている。
もともとは、作物の苗を選んで抜き、良質な生育を助ける作業を指す。転じて、生まれたばかりの子どもを窒息死や圧死させて、子どもの数を調整すること。モドス、カエスなどさまざまな言葉があり、異界からの授かりものである嬰児を異界に戻すという意味合いがあった。江戸時代には、間引きを控えるように諭す絵馬などが流布した。貧困が原因の悲惨な風習とする見かたがある一方で、予防的な人口調整のテクノロジーであったと考える見かたも提起されている。
実の親子ではない者同士が、親子であるかのような役割関係を持つ風習のこと。カトリック社会における代父・代母(ゴッドファザー・ゴッドマザー)、日本社会における取上親や名付親、成人時の烏帽子親などがそれにあたる。親のほうを仮親という。仮親と子ども・実父の間には無限定な恩義の感情を伴う互酬的役割関係が形成される。
家業や家産、家名、家系を世代を超えて存続させることを求める、「家」に関わる規範や了解の体系のこと。広義には、中世の武家のいえから、近世の共同体に埋め込まれたいえなどを含む。狭義には、明治民法(1898年制定)の家族法に規定された、戸主が権力を持ち、男子優先、長幼の序を旨とする家父長制的家族のことを指す。狭義の家制度は戦後民法で廃止されたが、その規範は現代にいたるまで日本社会に残っている。
民間企業や官公庁で働く賃金労働者・俸給生活者(事務職等)の階層を指す。サラリーマン、ホワイトカラー層。生産手段を持つ資本家階級(ブルジョワジー)と持たない労働者階級(プロレタリアート)の中間に位置する、自営業(中小商工業者)や自作農、職人などを中間階級といったが、それらを旧中間層と呼び、新たに台頭してきた中間層を新中間層と呼ぶ。日本では戦前期の都市部で登場し、そのライフスタイルやライフコースが、1960年代以降に大衆化する。
子どもを無垢で純粋なものと見て、その感性や直観力、想像力などを尊重し、童心を理想とするような子ども観、芸術観を指す。児童文学における童話・童謡というジャンルとともに登場した思潮で、児童文芸雑誌『赤い鳥』(鈴木三重吉主宰)に代表される。大人の鑑賞に堪えうる優れた文学作品を生み出した一方で、その耽美的な作風が必ずしも子どもたちに受け入れられたわけではなく、元子どもや子どものためを思う大人から、童心主義批判が繰り返される。有名な批判に、映画評論家の佐藤忠男による「少年の理想主義について:『少年倶楽部』の再評価」(佐藤 1959)や、児童文学者・作家の古田足日による「さよなら未明:日本近代童話の本質」(古田 1959)がある。
制度上は、義務教育を受けるべき学齢の年少者が、学校に籍がなく通学していない状態を示す。就学免除に加え、居所不明、戸籍なし・外国籍などで学齢簿に氏名がない場合などがありえる。籍があるが通学していない場合は、長期欠席や不登校などと呼ばれてきた。1900年の第三次小学校令第33条で、障害による免除、病弱による就学猶予が制度化され、保護者貧窮がそれらに準ずるとされたことから、貧困層を一定数含んでいた。戦後に「長欠・不就学」が社会問題化し、解消が目指された。
非行少年(少女)、保護者がおらず、かつ必要と認められた少年などを、保護し教化(感化)することを目的につくられた施設。1884年の池上雪枝の実践を嚆矢として、私設の感化院が各地に設立された。1900年の感化法により制度的に位置づけられ、そして、1908年の刑法施行に伴う改正感化法により、全国に設置が義務づけられた。1933年の少年教護法の制定で少年教護院、1947年の児童福祉法の制定で教護院と名称が変更されている。1997年の児童福祉法改正で、1998年以降は児童自立支援施設に改称された。>
孤児や捨て子など保護者のいない子どもを収容して養育する施設。1929年の救護法で公的な用語となったが、1947年の児童福祉法の制定で養護施設、1997年の児童福祉法改正で児童養護施設と改称された。キリスト教などの宗教団体を中心に、民間団体による施設が多い。第二次世界大戦後の戦災孤児を最後に親がいない子どもは減少し、現在は、虐待を含む親が養育できないケースが多数派を占める。現代では、一般家庭に近い小規模な施設で、自立を支援することが重視されている。
家庭で行われる教育を指す。日本の行政用語としては、家庭教育、学校教育、社会教育の3領域の1つ。しつけにとどまらない、意図的な教えや学習援助を含む傾向がある。1900年代(明治後半)に学校教育が定着するのに並行して、それを補う家庭教育という語が登場し、婦人雑誌等を通してその重要性が徐々に大衆にまで浸透していった。20世紀末になると、家庭教育機能の「低下」が騒がれるが、要求水準の上昇でそう見えるようになったといえる。また、母親役割と結びつけられてきたことから、性別役割分業の問い直しとの緊張関係もはらむ。
近代化の過程で、人口構造が多産多死→多産少死→少産少死へと進んでいくことを指す。近代以前は多産多死があたりまえであったのが、医療技術の進歩による死亡率(乳幼児死亡率を含む)の低下が始まると多産少死へと移行し、人口爆発が懸念される。ここに、経済水準、識字率の向上や家族計画(避妊)の知識の大衆への普及が加わって出生率が抑制されると、少産少死の社会にいたる。日本の場合、明治以降に最初の転換が進み、高度経済成長期以降に次の転換が進んだ結果、超少子高齢社会が到来している。
知識詰込み型の教育に対し、子どもを主体的生活者として位置づけ、生活上の課題や要求を発展させることで、生活に必要な知識や技能、態度を形成しようとする教育。ペスタロッチに起源を持ち、デューイが発展させた。日本の場合、国民教化の手段として子どもの興味や経験を重視するというものから、農村や労働者の厳しい生活を直視し既存社会の改革の主体として形成するというものまで、幅広く展開された。作文(綴方)により生活を見つめ生活を改善させる生活綴方、第二次世界大戦後の経験主義教育もその流れといえる。20世紀末に提起された「生きる力」や「総合的な学習の時間」も、その系譜と位置づけることもできる。
欧米の新教育運動の影響を受け、明治末から大正期に展開された理論的・実践的な教育運動。当時主流だったヘルバルト主義の形式主義教育を批判し、子どもの自発性を重視し、生活に根差した体験型学習を主張した。大正デモクラシーのムードも後押しするなか、師範学校附属小学校や私立学校(成城小学校、自由学園など)で花開いた。ただし、既存の教育の改革を掲げているが、教育の枠内である以上、根本的な教育の転換にはいたらなかったという評価も多い。
従来の学力観が知識詰め込み型だという批判のもと、1987年の臨時教育審議会答申などから唱えられ、1989年告示の学習指導要領に反映された学力観。児童生徒の個性を重視し、体験型学習や問題解決型学習を重視する。これが提起された背景には、経済成長を達成したのちの社会では、創造性や思考力が必要だという人材像の変化もある。1998年告示の学習指導要領(いわゆる「ゆとり教育」)では、「生きる力」というコンセプトや「総合的な学習の時間」が取り入れられたが、学力低下をもたらすと批判された。ただし、「生きる力」はその後も残り、2017年告示の学習指導要領のキーコンセプトとなっている。
知識詰め込み型の一斉教授に対抗して提起される、学習者が能動的(active)に取り組む学習法のこと。ディスカッション、グループワークなどを重視し、体験型学習、問題解決型学習を唱える。古くはデューイの経験主義などにさかのぼれるが、日本の教育行政では2010年代半ばから主張され、2017年告示の学習指導要領に「主体的・対話的で深い学び」という言葉で取り入れられた。知識基盤社会、生涯学習社会が到来し、子ども時代に詰め込まれた知識では、刻一刻と変わる社会状況に対応できないという前提に基づいている。
刑事法制において、年少者を成人と区別して不論罪、減刑などで処することは、古今東西で行われてきた。19世紀に年少者の保護という観点が加わり、懲罰を与えるのではなく、国が親代わりに教育する保護主義が登場し、犯罪を行った少年に加え、保護者の監督下にない浮浪児や、不良傾向のある非行少年などを対象とする少年法制が立ち上がる。先駆けは、1899年のシカゴ少年裁判所(アメリカイリノイ州)である。世界各国の少年法制には刑事法や児童福祉法制との関係でバリエーションがあるが、日本は、1922年制定の旧少年法でも、1948年制定の現行少年法でも、独立法で対応している。20世紀後半以降、適正手続きと少年の人権保護、犯罪被害者の保護などの観点から、保護主義が再審に付されている。
親と子、医師と患者などの非対称の関係において、弱い立場にある者の利益のために、本人の意志を問わず、生活や行動に介入・干渉することをいう。優位者の権力性という問題がつきまとう。ラテン語のpater(父)に由来し、日本語では父権主義や温情主義と訳されてきた。国が親代わりに少年を保護するという保護主義・国親思想(パレンス・パトリエ)を基盤とする少年司法には、パターナリズムの是非という論点がつきまとう。アメリカでは、1967年に、連邦最高裁判所で少年法が適正手続きを欠いていることが指摘され(ゴールト判決)、国親思想に基づく少年法制への批判が高まった。
工場労働者の労働基準、女性や年少者の保護基準を定めた法律の総称。イギリスにおいて、児童労働の禁止を定めた1802年工場法を先駆けとして、内容が拡充されて各国に広がった。労働者保護が曲がりなりにも途に就き、義務教育の整備や就学につながったという評価と、資本主義における労使の対立を避けるための最低限の法にすぎないという評価がある。日本では、1911年に制定され、1947年に労働基準法が制定されたことで廃止された。
日本の歴史で「児童虐待」が社会問題化して法整備につながったのは2回である。1回目は戦前期で、このときの「児童虐待」はcruelty to childrenの訳であり、人身売買や見世物などの残虐行為の意味していた。世界的に児童虐待防止運動は、動物を闘わせたりする前近代的遊戯を禁止する動物虐待防止運動が子どもに転化したもので、この歴史を知ると、1933年制定の児童虐待防止法の、児童福祉法の前史という面とは異なる、近代国民国家の必要装備という面が見えてくるのではないか。2回目の社会問題化は1990年代で、家庭内での子どもの虐待(英語ではchild abuse)が社会問題化し、児童虐待の防止等に関する法律(2000年制定)につながった。
消費は、資本主義以前の社会では、非生産的な浪費や快楽として、宗教的・道徳的に禁欲されるべきものと位置づけられてきた。しかし、資本主義社会において、需要を生み生産を駆動する経済の一機能と捉えられるようになった。いかにも子どもらしい子どもの表象や、かわいそうな(だが子どもらしい)子どもの表象は、耳目を集める要素として、雑誌、広告、テレビなど大衆メディアで繰り返し用いられてきた。そこには、保護・教育するという発想とは別の、受け手の快楽や教訓として子どもの表象を受容する態度と、そこに商機を見出す態度が交錯している。
貧しい人の写真や映像を撮影し流通させることで、人々の同情を掻き立て、支援を広げたり、当該メディアの売り上げを伸ばしたりする戦略が、刺激的な映像で感情を掻き立てるポルノと似ているとして、貧困ポルノと批判的に呼ばれた。支援の目的を達成する手段として是認されるという意見もある一方で、搾取的である、人権侵害であるという見かたもある。○○ポルノという言い方はさまざまに広がっている。
児童保護立法の一環として、20世紀転換期から、各国で年少者の飲酒や喫煙を禁ずる法律が制定された。日本では、1900年に未成年者喫煙禁止法を成立させた根本正衆議院議員(1851~1933)が、翌年から毎年帝国議会に提案し続け、1922年にようやく未成年者飲酒禁止法が成立した。民法上の成人年齢で線を引くことの必要性や根拠をめぐって、議論が交わされた。その後も、年齢を25歳に引き上げる法案が25年にわたって出され続けるが、成立しなかった。高度経済成長期を経て自動販売機が普及すると、誰でも酒を買えてしまうことが少年非行を助長するのではないかと問題視されたが、規制にはいたらなかった。未成年者飲酒禁止法は、未成年者への罰則はなく、親権者や販売者を規制する法である。1990年代末に、健康増進の時流に加え、少年の飲酒運転事故などを契機として規制の機運が高まり、2000年に、年齢確認の義務化や罰金額が明記されるなどの改正が施された。2022年の成人年齢の引き下げの際には、飲酒・喫煙は20歳据え置きが決定し、二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律と改称された。
過度の飲酒を戒める動きは古くからあるが、18世紀以降、アルコール度数の高い酒の普及や流通量の増加により飲酒が日常行為となったことで、飲酒は労働者階級の貧困や逸脱の原因とみなされ社会問題化していった。禁酒運動は、博愛主義的な社会改良運動として、19世紀初頭から20世紀初頭の英米で盛り上がったが、アメリカの禁酒法(1920~33年)が、ギャングによる密造・密売の横行を許したことは有名である。日本でも、キリスト教運動の色彩の多い禁酒運動が、19世紀末から広がった。未成年者への酒類の販売禁止や飲酒禁止が諸外国で立法化されるのは20世紀転換期以降で、日本では、未成年者飲酒禁酒法が1922年に成立している。
1589年、豊臣秀吉が京都二条柳町に遊女屋を集めて公認し、1617年に江戸幕府が吉原遊郭を公認したことにより、公娼制度が始まったとされる。これらは、特定区域の店を認可するもので、集住させることで私娼を取り締まる目的であった。欧米では、公娼制度は、パリ警察による公娼登録(1802年)から各地に普及した。明治政府は、1872年の娼妓解放令以降も、性感染症管理の意図から、女性個人の自由意志による登録制という建前で事実上公娼制度を維持し、1900年の娼妓取締規則で戦前期公娼制度が確立した。19世紀後半には、キリスト教団体や女性の権利運動などがさまざまな観点から売春と公娼制度を批判するようになり、20世紀には、国際条約で自由意志によらない売春を人身売買として禁止する。日本でも、廃娼運動が盛り上がったが、戦前期には公娼制は廃止されず、占領軍によって娼妓取締規則が廃止されたあとも、「赤線」として事実上存続した。1956年の売春防止法の制定で、日本の公娼制度は廃止された。
男性と女性で異なる性規範が適用されること。ロマンチック・ラブ・イデオロギーが浸透した近代社会において、恋愛=結婚=性の三位一体が望ましいとされ、婚姻外の性を抑制する純潔主義が規範化したが、女性にはそれが厳密に適用されるのに対して、男性は「甲斐性」などと婚姻外の性が黙認・推奨されてきた。現代においては、純潔規範は衰退したが、女性に抑圧的な性の二重基準(規範)がなくなったわけではないだろう。
産業革命以降、夜警国家ではなく、国家が公的扶助や社会保険による生存保障をする必要性が論じられ始める。19世紀後半のビスマルク時代のドイツの社会保険を先駆とし、第二次世界大戦後のイギリスなどで、社会保障制度を重視した政策が敷かれ、「福祉国家」と呼ばれるようになる。狭義の福祉国家は社会民主主義を指すが、政府による公共事業や所得再分配を通じて完全雇用と経済成長を実現するケインズ主義も、広義の福祉国家といえる。西側諸国は、資本主義と自由経済を旨としつつその弊害を是正するものとして、多かれ少なかれ福祉国家と呼びうる施策を取り入れた。
欧米企業とは異なった、終身雇用、年功序列賃金、企業別組合を特徴とする日本企業のマネジメントのこと。これに加え、新卒一括採用、企業内訓練(OJT)、企業内福祉(福利厚生や退職金制度)等により、学卒から定年までの長期安定雇用を保障し、妻子や老後の生活保障も企業がするかのような体制となった。公的社会保障が弱体だった戦後日本において、性別役割分業と日本型雇用慣行が、福祉国家と呼べる体制を現出した。家族に支えられた子ども期の学歴取得競争からの就職、結婚といったライフコースイメージの浸透とも深く関わっている。1991年のバブル経済崩壊後に問い直され、非正規雇用が増大したり、離転職が容易になったりしたものの、基本的な骨格は残り、求職者や労働者、そして子どもとその親の意識を規定している。
生活水準が低く所得が少ないことを貧困と呼ぶ。その指標として、極度に貧しい状況を定義する絶対的貧困と、所属する社会で必要とされる社会活動に参加し、生活を快適に過ごすのに必要な資源を欠いている状態を定義しようとする相対的貧困とがある。前者では、「1日に使えるお金が2.15米ドル未満」(2022年)と定義される国際貧困ラインが有名である。後者では、「等価可処分所得(世帯の可処分所得〔収入から税金・社会 保険料等を除いたいわゆる手取り収入〕を世帯人員の平方根で割って調整した所得)が中央値の半分未満の額の人の割合」という相対的貧困率がよく使われる。子どもの貧困率は、この相対的貧困状態にある18歳未満の子どもの率で算出されている。
日本に居住する外国人のうち、戦前からの旧植民地出身者とその子孫をオールドカマー、戦後新たに来日した外国人をニューカマーと呼ぶ(後者は第13章のキーワード)。1970年代後半ごろから、インドシナ難民、東南アジア出身の女性、中国帰国者などが増え、好景気と人手不足を背景に1989年に入管法が改正され、日系南米人の来日が急増し、ニューカマーという語が定着した。子どもの問題でいうと、戦後や1970~80年代におけるオールドカマーである在日韓国朝鮮人の2世、3世の教育問題と、1990年代以降のニューカマーの子どもの教育問題で、類似点(差別や格差)と相違点(日本語能力や母文化との距離など)がある。
なんらかの対象に対する不安や恐怖であるパニックが集団で共有され、激しい感情が表出される社会現象となること。対象となるのは、たいていは誤解や偏見に基づいて社会秩序に対して悪影響があるとみなされた人々、反道徳的とされた人々であり、多くの場合、マイノリティ集団やその文化がやり玉にあがる。非行少年やその予備群とみなされた孤児なども対象となりやすいが、20世紀末の日本では、すべての「子ども」「青少年」がリスク層であるかのようなモラル・パニックが繰り返された。
人権には、自由権や参政権など、個人の自由や主体性、社会参画を保障する権利が含まれるが、子どもの権利というと、保護される権利や教育などを与えられる権利といった、受動的権利ばかりが概念化されてきた。それは、まだ大人ではなく、働いていない、社会に出る準備期間であるといった、子ども観の「網の目」のなかで概念化されたものといえる。これに対して、20世紀の特に最後の四半世紀には、子どもも社会の参画者であり、権利を行使する主体であるとして、意見表明や社会参画などの権利を保障しようという能動的権利が主張され、1989年に採択された国連子どもの権利条約にも組み込まれた。
1989年に国連総会で採択された18歳未満の子どもの権利保障に関する、全54条からなる国際条約。日本は、1994年に批准した。子どもの最善の利益の保障(3条)を掲げ、生きる権利・育つ権利(6条)や暴力からの保護(19条)、社会保障を受ける権利(26条)、生活水準の確保(27条)、教育を受ける権利(28条)など、保護と供与にまつわる伝統的な子どもの権利に加え、意見表明権(12条)、表現の自由(13条)などの能動的権利、休み遊ぶ権利(31条)などの新しい子どもの権利が加わっている点に特徴がある。子どもの養育については親の責任が第一義的で、国はそれを援助すると規定されている(18条)。
第二次世界大戦後の経済成長と社会変動の結果、工業化・産業化による近代化の局面が終焉したという認識のなかで、現代社会は、ポストモダン(近代の後)ではなく、近代社会の延長にあると捉える理論として、後期近代、再帰的近代化、第二の近代、リキッドモダニティなどの名称が提起された。サービス産業化(ポストフォーディズム)、グローバル化、個人化など、近代の力学が昂進し、個人と社会のありかたについて、近代社会の特徴である再帰性が高まったとみなされる。
1980年代以降、経済成長の鈍化と福祉国家の行き詰まりへの応答として自由主義諸国で台頭した、市場原理主義的な思想の総称。1980年代のアメリカのレーガン、イギリスのサッチャー、日本の中曽根などの保守政権において、緊縮財政や規制緩和などのかたちで現実の政策に反映された。日本の場合、小泉政権(2001~2006年)時代の「構造改革」が新自由主義政策の代表とされ、格差が拡大したという新自由主義批判が巻き起こった。
第11章の「オールドカマー/ニューカマー」を参照。
健常児への普通教育に対して、障害児教育は歴史的に特殊教育と呼ばれてきた。障害を補い、健常児の教育に準ずる教育を施すという意味合いが強い。それに対して、20世紀末から世界的に、「特別な教育的ニーズ」という概念が広がる。障害を個人の問題、医学的問題と捉えて健常者に近づけようとするのではなく、障害を考慮しない社会の問題だとみなす「社会モデル」が提唱されたこともあり、健常児も含めた一人ひとりの教育的ニーズに対応した教育を行うことや、インクルーシブ教育が提唱される。日本では、長らく障害児は一部の実践を除けば、「就学猶予・免除」の名のもとに学校教育から排除されてきた。1947年の学校教育法で特殊教育と位置づけられたが、養護学校の義務化は1979年を待たねばならなかった。2006年の改正で特別支援教育へと移行したが、根強い別学志向をめぐっては、インクルーシブ教育が実効的でないと、2022年に国連障害者権利委員会に勧告されている。
社会的排除とは、障害・疾病、家庭環境、失業・貧困、マイノリティであることなどによって、財や権利、社会関係から締め出されることをいう。単一要因の指摘にとどまらず、連鎖的に社会関係から排除されていること、および、貧困や差別状態にとどまらず、その要因・結果としての社会構造の生産・再生産まで含み込んだ概念。そのような状況に置かれた人々を社会の一員として取り込み、援助する社会的包摂が目指されるが、既存の構造を変革しない包摂戦略は、「包摂のなかの排除」にとどまるおそれもある。
21世紀転換期の文脈では、イギリス労働党のブレア政権(1997~2007年)が提唱した政治路線で、アンソニー・ギデンズ(1938~)が『第三の道』(1988)に記した新自由主義と社会民主主義の間の選択肢を指す。社会民主主義的な福祉国家政策に、福祉国家を縮小し市場原理にゆだねる新自由主義を部分的にとり入れるもので、民営化と規制緩和による経済格差に対し、就労支援と就労前の教育に力を入れる機会の平等政策を特徴としている。子どもの文脈では、これにより、将来的な就労による「自立」を前提とした、子ども期の生存保障と教育保障の機運へとつながっていく。
客観的に存在すると考えられがちな出来事や社会的カテゴリーが、人々の相互行為によって構築(構成)されたものだという主張をする理論的立場。実在論や本質主義に対置される。社会問題がどのような関係者の活動で構築されたのかを見る社会問題の構築主義もあるが、本書では、イアン・ハッキング動的唯名論などに示唆を得て、ともすると生物学的で自然なカテゴリーと捉えられがちな「子ども」を、そのような実在論や本質主義を括弧に入れて、制度や実践、人々の行動の連鎖によってどう形成され変容していくかを追跡する立場をとっている。