HOME > 書斎の窓
書斎の窓

連載

日本国憲法のお誕生

第12回(最終回) 日本国憲法の「お誕生」

法政大学名誉教授 江橋 崇〔Ebashi Takashi〕

日本国憲法制定劇のアクター

 日本国憲法の制定劇には多くの関係者・アクターがかかわった。反対派はGHQが主役であった不当な干渉劇で押付けられた憲法だと非難し、支持派は日本国民が歓迎し、支持する形で出演して制定した国民主権の憲法だと言うが、実際には主役には不足で世界史的潮流という超大物の主役を友情出演させた。だが、この連載で見てきたように、制定劇の小道具にあたる記念グッズ、祝賀グッズを詳細に見てみると、同じ舞台で様々なアクターが乱舞していて、これは善玉、こちらは悪玉とはっきりしている単純な勧善懲悪の舞台ではなかったことが分かる。

 GHQが改憲劇の主役であったことは言うまでもない。革新的な憲法改正案の強圧的な提示、日本側の改憲作業への関与、憲法付属法の内容への干渉、憲法の公布・施行の手続や記念行事への関与、マスコミを通じた啓発・広報活動への関与は顕著であり、占領軍なので、公職追放、報道出版の検閲、郵便物検閲などの権力行使も背景にして、GHQは改憲劇のこわもての主役であり続けた。

 日本政府というアクターは、天皇主権の国体護持という敗戦時の公約を守る小規模な憲法改正という筋書きをGHQに真っ向から否定された。だが、GHQ草案を受諾しながらもしぶとく象徴天皇制を含んだ主権在民主義という日本に独自の奇妙な国民主権論を唱えた。議会政治の復活強化と帝国陸海軍の解体は認めたが、議会制、内閣制、政府の構成、司法制度、財政、地方自治などでは多くの点で従前の官僚主導の国家体制の維持継続を滑り込ませた。日本国憲法は主権在民と軍備放棄を2つの主柱とするものであった。これにあえて加えれば文化国家を建設して世界に立つのが第3の柱である。

 こうした政府の意向を受けて日本国憲法の解釈、普及啓発活動にあたったのが半官半民の憲法普及会というアクターであった。中央事務局に元文部官僚を据え、京都府以外の全都道府県に官選知事と県職員で地方支部を設けて活動した。この憲法普及会こそ、啓発活動の中心に祝賀記念行事や記念品の制作配布を企画して、上からの祝賀啓発の主役になった。

 この憲法普及会に登用され、政府寄りの二本柱の憲法解釈で啓発宣伝の先頭に立ったのが東京大学法学部というアクターであり、特に憲法学の宮沢俊義、行政法学の田中二郎、国際法学の横田喜三郎の活躍が目立った。この活動を通じて、東大法学部は政府に近い戦後法律学の覇者となることができた。かつて立花隆は『天皇と東大』を著したが、残念なことに1945年の敗戦時で巻が閉じられている。もし戦後期を扱う『続・天皇と東大』が書かれたら、立花は東大の日本国憲法制定への関与をどう描いただろうか。この点での正確な認識を抜きにした戦後期の憲法学史の研究は「振出し」から歪みっぱなしであるが、立花であれば左右どちらかに偏向した同時代史の著述をどう解析しただろうかと思うところがある。

 報道機関・文化人というアクターの憲法支持の活動も目立った。戦争中に反米英の軍国主義を支持して戦意高揚に活躍していた多くの報道機関や文化人が敗戦後に態度を急変させて平和主義の親米派に転向し、日本国憲法を支持して賛美した。GHQはジャーナリスト、出版社幹部、新聞社幹部らと日本国憲法の普及・広報の進め方について秘密会合を繰り返して協議している。GHQは普及・広報の力点は、①基本的人権、②地方自治、③主権者国民の責任の強調に置かれるべきであり、司法の独立はざっと触れる程度にして、天皇の地位の変化には触れないほうが賢いとしていて、報道機関はそれへの協力を指示された。これと裏腹に、GHQの意向に反する言説は東京内幸町のNHK社屋内にあった検閲当局によって発禁、処罰の憂き目にあうので、報道機関・文化人はこぞって日本国憲法を支持して賛美した。こうしたGHQ翼賛の動きに距離を置いたのは反対派の右翼か、日本共産党系の左翼であったが、その言説は報じられることが少なかった。

憲法制定は同床異夢の乱舞劇

 こうして憲法制定劇を詳細に見てみると、多くのアクターが自分の思惑で勝手に動き回っている。言うならば同床異夢、外国軍隊占領下の憲法制定という乱舞劇の舞台である。従来の憲法史の叙述は、著者の価値観が最初にあって、それに都合のいい現象、配役だけを拾い出して並べて説明しているだけでこうした乱舞の全体は理解できていない。

 ところで、この舞台には、もう一つの主役がいなければおかしい。それは日本国民である。主権者で、この憲法を制定したはずの国民はどこにいったのか。

 新憲法案の採否を決定する国民投票という役どころから外されていた国民には、上からの啓発の対象であり、国民動員型の祝賀行事に参加する民衆であり、憲法を学習する生徒という役柄が振り当てられた。それが日本国民の憲法体験であった。

草の根における新憲法の受け止め方

 日本国民は、それでも、各地方で特色ある活動をした。秋田県内で制作した「新憲法漫画いろは歌留多」は、憲法普及会が有名な文化人や漫画家を動員して制作した新憲法記念のかるたよりも内容が濃く、真正面から新憲法を学ぼうとする気持ちが伝わる。京都府では憲法普及会の事務所が府庁舎ではなく同志社大学に置かれ、民間主導で憲法紙芝居「憲法の家」の制作をはじめ、自主的な取り組みが進められた。兵庫県と神戸市は、新憲法啓発の講演会の開催などにも熱心であったが、新憲法記念の新県民歌を全国に先駆けて創作して県民が合唱する機会を多く作った。石川県では、祝賀県民大会に米空軍機が飛来して爆弾に似せて祝賀のビラを撒き落とすというブラックジョークを体験した。岡山県はことのほか啓発に熱心で、開催した勉強会のありさまを立派な書物にしたところ、内容が優れていたので憲法普及会が買い上げて全国に広めた。国会図書館のプランゲ文庫資料には憲法普及会福岡県支部の「こども憲法」(原稿)があり、またこれと別に記念紙芝居も計画したという記録もある。愛知県では新教育振興会が「子供のけんぽう」を刊行した。そのほか、日本国憲法の公布日や施行日には文化、スポーツなどでの催しが各地で多く行われたが、各地方でその地方独自の企画が行われた。

日本国憲法のお誕生

 こうした草の根における新憲法の受け止め方を見ると、素直な祝意と学習が目に付く。日本国憲法の制定は、天皇主権の否定への反感でもなく、占領軍の押付けに対する反感でもなく、大多数の国民は憲法の内容は知らなかったが素直に好意的に受け止めた。そしてそこに特徴的なのは、自分たちの憲法ができたという喜びというよりは、自分たちにははるか遠い東京、日本の中心でよい憲法ができて天皇も喜ばれているという、自分の生活の外で起きた慶事への祝意だということである。新聞やラジオがこぞって素晴らしい憲法だと伝え、批判的な言説は一つも報道されない。東京大学の偉い先生がやってきて新憲法の意義、内容を教えてくれる。その日はお祝いの日になりこの日限りであるが国旗日の丸の掲揚も認められる。県知事や市長を初めて選挙で選んでその人たちが先頭に立って行われるお祝いの行事に参加するように求められる。芸能の大会やスポーツの大会が開催される。お祝いのお酒やたばこの特配があり、食料品も出回る。こうしたことのすべては、東京で起きた目出度い国家の慶事への地方草の根における協賛であった。そして、公布日や施行日の翌日の新聞には、全国で祝賀の行事が盛大に行われた様子が報道され、批判的な事象は何一つ伝えられていないから、祝祭は日本全国でこぞって行われ、日本国民は絆で結ばれ、気持ちを一つにしたのだと改めて納得することができる。これが各地の国民が感じたところであったと思う。

 『新しい憲法・明るい生活』は「私たち」に「新憲法の実施を迎え、新日本の誕生を心から祝う」ことを求めた。日本国憲法は確かに祝われて誕生した。だが、それは自分の家族に子どもが誕生した喜びというよりも、東京の親せきの家族での新しい子どもの「お誕生」の祝意であった。建前では国民主権であり、自分の憲法が生まれたはずだが、そうした実感ではなくて、主権在民と平和主義の素晴らしい新憲法だとしてお上から下げ渡されたという感覚である。この微妙な距離感を伴って、しかしとてもまじめな気持ちで、国民は日本国憲法の生誕を受け止めた。それは「日本国憲法のお誕生」と表現するのがふさわしいと思う。

憲法記念日が5月3日である理由

 憲法典や重要な法律の制定を記念するときは公布の日にこれを行う。日本では法律をその施行日に記念した例はない。憲法記念日は例外的で奇妙な日付になっている。

 第2次大戦前の日本には、皇室行事に関連する祝祭日が勅令によって定められていた。日本を占領したGHQは、1945年12月15日に「神道指令」を発して国家神道の廃止を指令した。その後、これを担当した民間情報教育局(CIE)は、神道指令の趣旨を徹底するために戦前の祝祭日の廃止を指令した。これは当時のGHQの宗教政策の一環であり、アメリカ側の関心は国家神道がらみの祝祭日の排除に集中していた。

 1947年の後半期以降に、戦前の祝祭日に代わる新しい祝日を定める機運が高まった。政府は当初、勅令に代えて政令でこれを定めようとしたが、この年の年末に原案を衆参両院に示したところ、両院が法律事項とするように要求したので、政府と衆参両院の共同作業になった。担当したのは、「文化委員会」という担当官庁がない常任委員会(第3回国会の常任委員会再編成で廃止)となった。GHQ民間情報教育局はこの過程に当初から介入し、紀元節(2月11日)、神武天皇祭(4月3日)、神嘗祭(10月17日)などの復活を拒否した。

 日本政府が1947年12月に示した新しい祝日案に憲法記念日があった。その日付は、法律文化の常識にそって、日本国憲法発布の日である11月3日とされていた。民間情報教育局はこれを支持して、当初はこの日に決まりかけていた。ところが、GHQ内の民政局が異を唱えた。1948年6月7、8日に、民政局のオズバン・ホージ(Osborne Hauge、ホージは高柳賢三等の訳、ハウグ、ハウジ、ハウギとの訳もある)海軍中尉はウイリアム・ケネス・バンス宗教課長に電話して、「民政局は、11月3日を憲法記念日とすることは思わしくないと思料しており、この件には重大な関心を示したい。民政局は憲法の発布における天皇の行為を記念することを欲しない。また、もし11月3日が用いられるのであれば、今後永久に、この日における明治天皇の意義深さが憲法の意義を上回ってしまうであろうことを恐れるのである」と伝えた。

 民政局のこの横車によって、すでに民間情報教育局も同意していた11月3日憲法記念日という案は急きょ5月3日の施行の日を憲法記念日とする案に変更された。民政局が示した反天皇主権の感情の強さと執拗さに驚かされる。

11月3日は日本国憲法発布記念日

 日本側は、この民政局の指令を歓迎したわけではない。参議院の文化委員会では、世界に先駆けて戦争放棄の憲法を発布したのだから11月3日をやはり憲法記念日として残したいという声が強く、GHQの指令なので文化の日とせざるを得ないが、それならば単なる文化だけでなく、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日としたいと述べられている。政府が国民の祝日法の制定後に憲法普及協会を使って出した啓発パンフレットでも、文化の日は「新憲法が公布された1946年の『11月3日』を記念する日です」と説明されている。結局この日は、栄光の明治時代を記憶にしっかりと残す日であるとともに、この日公布された日本国憲法の精神である自由と平和を愛し、文化芸術振興、文化国家で世界に立つ国になることを決意する日であるとされた。5月3日が表の憲法記念日であるとすれば、11月3日は裏の憲法記念日である。

おまけの話

 以上でこの連載はお終いである。連載では日本国憲法の誕生をグッズから見てきた。文献史学とは一味違うものになったと思う。ただ、この手法には、適切なグッズがないと真実と分かっていても説明できないという弱点がある。また、憲法制定にかかわった者の中には、誤解されたままで歴史の沼に沈んだままの人がいる。そこで、本編の付録として、グッズでは見えない日本国憲法の誕生を書き残すこととした。本誌のウェブ版にはスペースの余裕があるのでそれを順次に掲載する。そちらをご覧いただければ幸いである。長い連載になったがご講読に感謝する。

 

おまけ

ページの先頭へ
Copyright©YUHIKAKU PUBLISHING CO.,LTD. All Rights Reserved. 2016