HOME > 書斎の窓
書斎の窓

連載

日本国憲法のお誕生

第11回 草の根の日本国憲法、祝賀行事と解説パンフレット

法政大学名誉教授 江橋 崇〔Ebashi Takashi〕

各地で行われた祝賀行事

 1946年11月1日の「大分合同新聞」は、「三日憲法公布記念日に行う祝賀式の件につき内務次官から通牒があった。縣では各地方事務所、警察署、勤労署、世話部長各所長、各学校宛、簡単厳粛な祝賀式を行うよう三一日通牒を発した。この日縣庁は式を行い当日公布される勅語を奉読したのち知事の訓示がある」と伝えている。(勤労署はあまり聞かない役所名だが、戦争中の国民勤労動員署が敗戦後に勤労署に改称され、さらに1947年4月に公共職業安定所に改組されている)。公布日が「公布記念日」と考えられていて、その祝賀行事が内務省主導の下、全国で組織的に取り組まれた秘密工作の舞台裏を明らかにした情報はこの「大分合同新聞」の記事だけである。

 1946年11月3日は日本国憲法の公布日ではあっても「公布記念日」ではない。ただ、当日はたまたま日曜日であったし、伝統的な明治節で休日であったので、実際には公布記念日のようであり、祝賀式の後、芸能や運動の行事が各地で行われた。もともと明治節には「明治節大運動會」が行われる伝統があったから、「日本國憲法公布記念大運動會」はとくに開催されやすかった。花電車も各地で走った。

 一方、日本国憲法の施行日の1947年5月3日は土曜日であったが、臨時に休日とされた。この日の記念行事を仕切ったのは憲法普及会で、5月3日から5月9日までを、普及活動に集中的に取り組む「新憲法施行記念週間」とした。この期間には、①5月3日を休日とし、新憲法施行記念式典を挙行すること、②映画館、劇場、寄席等における記念興行、③記念講演会、記念体育大会、記念音楽会、記念展覧会等の開催、④記念放送のプログラムの編成、⑤新聞の記念号の発行、⑥有力雑誌との連携による宣伝、⑦店頭、街頭、駅、車内等における宣伝、記念絵葉書、切手、スタンプの製作が計画され、実際に各地で盛大に祝賀行事も行われた。新憲法施行記念式、記念講演会、記念祝賀会とともに、一般の映画会の開催、音楽演奏会、のど自慢大会、相撲大会などのスポーツ・イベント、囲碁大会、将棋大会、麻雀大会、競馬レース、鼓笛隊の行進、仮装行列、花電車、旗行列などなど、祝賀一色の行事が多かった。学校にも動員をかけたので、小学生、中学生の行進も多かった。ただ、当日は全国的に天候が悪く、東京の祝賀大仕掛花火大会は行えなかったので、用意した花火を消化するために、数日後、初国会祝賀大仕掛花火大会として行った。

 こうした記念行事を仕切ったのは各都道府県の憲法普及会支部、つまり支部長の都道府県知事とこれを職務とする地方公務員である。この日に合わせて、記念講演会も開催され、東大系の教授が話した内容は記録化されて書物として残された。このほかに、郵政を担当する逓信省、食料の安定供給を担当する農林省、労働行政を担当する厚生省(後に労働省に分化)などの官庁の所管で行なわれた祝賀行事も多くあったが、憲法普及会としては自らの活動の成果としてはカウントしなかったようで、報告書には登場しない。

GHQの祝賀行事参加

 GHQは、自分たちの憲法制定過程への強い干渉を隠して、日本国民自身が新憲法を制定したものとして祝賀した。とくに1947年5月3日の施行日にはそれが盛んで、東京でマッカーサーの声明や、吉田首相への祝賀の書簡が公表された。また、全国各地で軍政隊の軍人やその家族が祝賀行事に参加した。祝賀行事での祝賀のスピーチ、ダンス・パーティーなどへの参加、記念の講演、地方紙の取材に応じた言説などが目立つ。各地で軍政隊の幹部軍人が活躍しているが家族も活発で、秋田ではローレス秋田軍政部長夫人が「日本婦人の自覚」について語り、福岡では「軍政官令嬢ジョイス・マンスキーさん」が「アメリカの女学生として日本のお友だちへのお祝い」を述べた。その地方の新聞が報道する「令嬢ジョイスさん」の発言を見るとその立ち位置、発言はいかにも無神経である。

 GHQの祝賀行事への参加でもっとも過激だったのは金沢軍政隊である。5月3日に金沢市内の兼六園広場で行われる予定の祝賀市民大会(実際は天候不順で5月4日に延期して挙行)に米軍機3機が飛来して、上空から軍政隊の祝賀メッセージのビラ10万枚と北国毎日新聞社の祝賀ビラ5万枚を散布した。軍政隊のビラは英文と日本語訳文が書かれたもので、翌日の地方紙に英日両国語の全文が掲載されている。米軍機と言えばその苛烈な都市爆撃の経験からまだ2年もたっていない。その爆撃機が3機編隊で低空に飛来して、頭上で爆弾格納庫の扉を開けば、それはすなわち無差別都市爆撃、焼夷弾の雨、大量の爆死者と大火災の焼死者に直結するのだから、その記憶も生々しい金沢市民は肝を冷やしたことだろう。そうしておいてパッと「コングラチュレーション」のビラを撒く。これがアメリカン・ジョークなのだろうけど、さて人々にはユーモアとして笑えるほどの気持ちの余裕は回復していたであろうか。地方紙は市民の感想については報道していない。

憲法制定記念の県歌、県民歌の制作

 第二次大戦中の日本には、各地に県歌、県民歌があったがその多くは、GHQによって使用が禁止された。そこで、各県ではそれに代わる新しい県歌、県民歌、市民歌を、専門家に委嘱したり市民から公募したりして制作した。動きが早かったのは兵庫県で、1947年2月19日に、作詞は公募で選ばれた県内の国民学校教員のもの、作曲は信時潔に委嘱して、「新憲法公布記念県民歌」が正式の県民歌として発表され、同年5月3日の施行記念式典、5月8日の「兵庫県民歌発表音楽会」で披露された。ただ、この歌のその後は明らかでなく、いつの間にか演奏する機会がなくなった。その他、新憲法記念の県民歌としては、徳島県の「徳島県民の歌」(作詞:公募、作曲:今川幹夫)、山形県の「山形県民歌・朝ぐもの」(作詞:公募、作曲:橋本國彦)、新潟県の「新潟県民歌」(作詞:公募、作曲:明本京静)、長野県の「長野県民歌」(作詞:公募、作曲:前田孝)などがある。いずれも県民に広く受け入れられることはなく、比較的に短期間のうちに自然消滅したり、他の県民歌と取り替えられたりしている。

各地で発行された憲法の解説書

 日本国憲法の制定に伴い、全国各地でそれの解説書を作る動きがあった。国の機関の地方事務所や都道府県が発行したもの、地方紙の新聞社が発行したものが多数あり、その多くは20ページ程度のパンフレットであったが、『新憲法抄』は、東大教授の田中二郎、石井照久、有泉亨に最高裁の河村又介が加わった講義の記録で、1947年10月に岡山県東京事務所から発行されている。このほかに、国、県やそれに近い団体が発行したものには、北海道社会教育協会『新憲法解説問答』(1946年12月)、新潟県社会教育協会『新憲法解説』(田中耕太郎・新憲法の基礎理念、矢部貞治・新憲法を活かす道、1947年9月)、千葉県教育会『新憲法の解説』(中山宏、1947年3月)、兵庫県社会教育課社会教育協会『新憲法公布記念 新憲法の解説』(金森徳次郎・新憲法の精神、森順次・新憲法解説、1947年2月)、滋賀県『新憲法の解説』(非売品、田畑忍・新憲法と民主主義、1947年4月)、などがあった。新聞社系では、京都新聞社『新憲法解説』(黒田覚、1946年11月)、中国新聞社『新憲法と民主主義』(中村哲、1947年4月)、民生新報社(熊本県)『日本國憲法 改定新憲法全文』(1946年10月)などがあった。民間団体では、週刊学友社(大阪府)『少國民公民讀本新憲法の話』(実野恒久、1947年1月)、文化科学研究会(群馬県)『民主々義の原理による新憲法の解説 附、新憲法全文』(須郷登世治、1946年11月)、南思想問題研究所(北海道)『新憲法の精神』(南亮三郎・新憲法と民主革命、木村重義・新憲法と平和国家論、早川三代治・新憲法と婦人問題、1946年11月)、加越能青年文化聯盟(石川県)『新憲法の精神 新憲法に對する感激』(杉村章三郎・新憲法の精神、金森徳次郎・新憲法に対する感激、1947年5月)、農村文化協会長野県支部『中村哲・新憲法の政治的考察』(1947年2月)などがあった。しかし内容はいずれも東大、京大系の学者の講演会や講習会の記録がほとんどで、その地域に独自の内容や主張はまだ芽生えていない。

たった一人の『日本国憲法』

 日本国憲法の公布当時、熊本県菊池郡陣内村大字陣内に坂本一男という人が住んでいた。坂本は、日本国憲法の制定に感じるところがあって、一人で、当時朝日新聞社が発行した芦田均(衆議院帝国憲法改正小委員会委員長)、安倍能成(貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長)による新憲法の解釈書をもとにして、自分の意見も補充して、ガリ版刷りの憲法解説の小冊子を作り、周囲に配布した。1946年12月のことである。この小冊子は自作の謄写版刷りで、用紙の紙質もよくないが、そこに込められた坂本の気持ちは新憲法に高揚している。内容はまだまだ一般的に天下国家を論じるもので、自分の生活、自分の家族、自分の地域にとっての日本国憲法の意義、価値には記述が及んでいないが、その無私で真摯な勉強と執筆の姿勢には、遠い過去、明治時代の自由民権運動の草莽の壮士のイメージが重なる。

 この小冊子は、とっくに自然消滅するはずのものであったが、当時GHQが行っていた出版物の検閲の対象となり、当局に提出させられたものが占領期検閲資料としてアメリカで大事に保管されていた。当時の日本ではあちこちで同じように思い、同じようにたった一人で行動した草の根の有志が何人もいたと思われる。そういう人々の活動の痕跡は歴史から消え去っているが、坂本の小冊子が残されていたおかげで、草の根に、少なくとも一人はそういう有志が居たことが証明されて、そこからこういう推測ができるようになった。坂本の思いが引き継がれるのは僥倖と言えよう。

ページの先頭へ
Copyright©YUHIKAKU PUBLISHING CO.,LTD. All Rights Reserved. 2016