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書斎の窓

連載

日本国憲法のお誕生

第10回 東京大学法学部系の出版物

法政大学名誉教授 江橋 崇〔Ebashi Takashi〕

敗戦と憲法問題への取り組み

 1945年8月の日本の降伏後、日本政府の内部では憲法問題の検討が直ちに始まった。その際政府に助言したのは戦争中から密接な協力関係があった東京帝国大学法学部の教授たちであった。とくに憲法学担当の宮沢俊義は改正不要論ないし小幅改正論を唱えて官僚たちとの議論に関与した。その後、マッカーサーの示唆に基づいて元首相の近衛文麿が改憲案を構想した際には母校の京都帝国大学法学部の憲法学者たちの助言を得たが、近衛の動きが失速すると京大法学部系の憲法学は不振に陥り、東大法学部系が盛り返して、幣原喜重郎内閣が設置した憲法問題調査委員会に参加して小幅改正論で松本烝治担当大臣(明治・大正時代の東大法学部商法教授、同じ東大法学部商法教授で後の最高裁長官田中耕太郎は女婿)に積極的に助言協力した。

 大きな転機になったのは1947年2月13日にGHQが日本政府に改正案を提示したときである。宮沢は、自分がGHQの改正案を知ったのはだいぶ遅くなってからだと語っているが、実際は、日本政府への提示の直後に憲法問題担当の松本烝治から直接にあるいは毎日新聞社を通じて秘密裏にそれを見せられて内容を把握したようである。宮沢は当時、東大法学部内の有力教員の2つのグループのいずれにも属さずに孤立気味であったが、この極秘の大スクープをその後すぐに大学の同僚、南原繁法学部長に報告したものと思われる。

東大法学部憲法問題研究会の発足

 南原はGHQ草案の日本政府への手交の翌日、2月14日に急きょ東大法学部内に研究委員会を立ち上げた。委員長は驚くべき情報をもたらしたであろう、政府の改憲作業に詳しい宮沢俊義になった。この委員会には南原を中心に戦争末期に和平工作に動いたグループや、戦争中に親米派として冷遇され、戦後はGHQに足繁く通っていた国際法の横田喜三郎らのグループ、それに戦争中は矢部貞二とともに海軍に協力して米軍の日本本土上陸作戦に備えて戒厳令法制を準備していたが敗戦後は一転して横田グループに属してGHQに日参するようになった行政法の田中二郎らも参加していた。これらの有力教授たちは、ひそかに知らされた、憲法が大きく改正されようとしている時代の空気を前提に研究を進め、独自の憲法改正案を作成して公表した。

 こうした東大法学部系の教授の中では、ポツダム宣言受諾に伴い日本では法的意味での革命が生じたと把握した若手の丸山眞男が目立った。また、平和主義については、宮沢が、3月には早くも、「平和国家日本」が憲法原則であるべきだとする、それまで世界中の憲法学者でだれ一人考えたこともない論文を発表して学界をリードした。この論文の主張は日本政府に手交されたGHQ草案を透視したのか、そっくり同趣旨であるが、裏事情を知らない人々はその革新的な内容に驚愕した。親米派でGHQの信頼が厚かった横田は、新親米派の田中らとともに日本管理法令研究会を主宰して、用紙の特配を受けて月刊誌『日本管理法令研究』を大雅堂から刊行し、占領政策を解説するとともにそれを正当化する法理論を展開した。

美濃部達吉の憲法改正問題へのスタンス

 これが1946年当時の東大法学部教授たちの憲法問題へのスタンスであった。当時彼らの頭上には、天皇機関説事件で軍部と激しく対立し、帝国議会でつるし上げになり、テロ攻撃を受けて重傷を負って放逐された美濃部達吉がいた。美濃部の名声は格段に高く、すでに高齢で大学教授に復帰することはなかったが、その発言は人格への深い敬意とともに広く受け入れられ、発売禁止で絶版になっていた著作も再版されて生き返った。美濃部は、政府の憲法問題調査会の指導的なメンバーであり、枢密顧問官に復帰して憲法改正問題の審議にも参加した。だが、世界的な規模での憲法学の権威であった美濃部にとってはGHQの素人作りの改正案は到底支持できるものではなく、枢密院での審議では反対論を述べ、政府案の可否を問う最後の議決に欠席して批判的な立場を貫いた。

 一方宮沢は、入江俊郎法制局長官、佐藤達夫法制局第一部長らと連携しつつ帝国議会貴族院議員として同院での憲法改正案の審議に参加し、国民主権論、平和憲法論の立場で抜本改正の政府案支持の論陣を張った。この段階から、東大法学部系の憲法学は政府の官僚とともに日本国憲法を受け入れてその合理性を説明する憲法学になった。そして、1946年11月3日に日本国憲法が公布され、12月1日に憲法普及会が発足すると、宮沢は、田中二郎とともに啓発活動で重用された。

特別講習会の開催と『新憲法講話』

 憲法普及会は市民向けと称して講演会も多く開催したが、その第1回目は1947年2月15日から4日間、東京文京区本郷の東京大学講堂で中央官庁の中堅の役人700人を集めて東大系の教授が講師となって行われ、東大生300人が特別に傍聴を許された。

 憲法普及会は「特別講習会」の講義の速記を『新憲法講話』という書物にした。金森徳次郎「新憲法大観」の章に続いた講義録には外務大臣芦田均、文部大臣森戸辰男、衆議院議員堀真琴らの政治家のものもあったが、学者のものは「戦争放棄」を国際法の横田喜三郎、「家族制度と婦人」を民法の我妻榮、「国会と内閣」を憲法の宮沢俊義、「司法、地方自治」を行政法の田中二郎と、すべて現役の東大法学部教授が担当し、これに憲法普及会スタッフの鈴木安蔵「基本的人権」が加わった。本書は、その後全国各地で開催された新憲法講演会の講義の基準となり、同年7月に非売品として関係者に配布された後に、同年9月に一般向けにも発売された。憲法普及会は5万部の発行であったと誇らしげに報告している。

 なお、その後全国各地で行われた講習会は、いわゆる「顎、足、枕付き」、つまり、参加者の食費、交通費、宿泊費が主催者の負担という食料不足、インフレの当時としては破格の優遇であり、一般市民向けと言いつつも実状は各地方で旧来の地方名士を招待するものとなり、東大系の学者の講義を拝聴するものが多かった。戦争中の地方のリーダーは、この機会にいち早く新憲法の知識を身に着けることができたので、新生日本の地方のリーダーに変身する道が開かれた。また、各地の講習会に参加した名士たちの中で女性の参加者はわずか6パーセント程度にとどまり、リーダーは男性という戦前の日本の文化は、せっかく男女同権を謳った日本国憲法ができたというのに、あまり変わることがなかった。

『新憲法大系』全13冊

 憲法普及会は日本国憲法の解説書11冊と関係法規集2冊をシリーズで制作し、1947年10月以降に順次に発行した。第1巻が美濃部達吉『新憲法の基本原理』で始まり、以下、河村又介『新憲法と民主主義』/尾高朝雄『国民主権と天皇制』/横田喜三郎『戦争の放棄』/我妻榮『新憲法と基本的人権』/田中耕太郎『新憲法と文化』、石井照久『新憲法と労働』/中川善之助『新憲法と家族制度』/宮沢俊義『新憲法と国会』/浅井清『新憲法と内閣』/兼子一『新憲法と司法』、木村亀二『新憲法と人身の自由』/清宮四郎『新憲法と財政』、田中二郎『新憲法と地方自治』と、慶應義塾大学の浅井清を除く全員が東大法学部卒か現役の教授である。ここにも東大法学部重視という憲法普及会出版委員会の考え方が露骨に出ている。国立書院発行で、定価は巻によって45円から80円までに分かれる。

『新憲法概論』普及版

 学術書の出版社有斐閣は、1947年2月に、東大法学部の教授たちを編集委員とする法学選書シリーズ数十冊の出版を企画し、その1冊として美濃部達吉の『新憲法概論』を4月10日に刊行した。定価は50円であった。同書は、出版の時期が憲法施行の直前であり、美濃部の名声は高かったので大学の憲法の授業の教科書などとしてよく売れて品薄になり、とくに地方で入手しにくかった。憲法普及会は内閣新聞出版用紙割当委員会から用紙の特別割当を得て、3ヵ月後の7月に同会推薦の普及版(定価30円)を8500部制作して、その内の6000部を同会で割当頒布した。当時の出版事情と、東大法学部重視の有様が見える。

『新憲法の研究』と『註解日本国憲法』

 東京大学法学部は、紀要『国家学会雑誌』誌上で新憲法特集の連載を掲載し、1947年10月にそれをまとめて『新憲法の研究』として有斐閣から出版した。定価は130円であった。これには、宮沢俊義、尾高朝雄、横田喜三郎、我妻榮、野田良之、川島武宜、石川吉右衛門、団藤重光、田中二郎、刑部荘、杉村章三郎、兼子一、末延三次、伊藤正己、高木八尺が執筆している。また、この企画が終了した同年9月に、学部内の法学協会に「東京大学憲法研究会」を発足させて研究を深め、その成果を『註解日本国憲法』にまとめて1948年8月以降に有斐閣から順次出版した。これには、『新憲法体系』『新憲法の研究』の執筆者に加えて、鵜飼信成、加藤一郎、木村剛輔、鈴木竹雄、高田卓爾、高柳信一、平野龍一、三ケ月章、矢沢惇、綿貫芳源が加わった。これらの法学部の総力を挙げた企画の実行を通じて憲法学の中では政府と密接な関係のある東大法学部がとりわけ高い権威と強い影響力を持つようになった。あわせて有斐閣も、東大法学部教授が編集委員の雑誌『ジュリスト』の刊行もあって、有力な法律系出版社の地位を固めた。

憲法普及協会

 これまで触れたように憲法普及会と東大法学部の仲良しぶりは顕著だが、憲法普及会の後継団体、憲法普及協会との関係はほとんど知られていない。同協会は財団法人であり、東京港区内に本部を置き、全国に都道府県支部を置いた。会長は金森徳次郎、理事長は入江俊郎、理事は岩淵辰雄、下條康磨、周藤英雄、宮沢俊義、山浦貫一、吉田安であり、監事は田中二郎である。法律学者で憲法普及会から引き続き活動したのは東大法学部の宮沢、田中の2人だけである。半官半東大の色彩は憲法普及会当時よりもさらに濃い。

 なお、この協会は、当初はアメリカ、イギリス、ソ連や国連などの制度に関する啓発パンフレットを出版していたが、途中から『憲法改正と天皇の問題』『非米活動委員会と七ツのスパイ事件』『なぜ帰れぬ50万! 引揚げの実状』などの時事問題を扱うようになり、国民の祝日法の制定後の啓発パンフレット『國民の祝日』も発行している。題名がいかにも怪しいし、憲法施行1年後に早くも宮沢も参加して憲法改正を論じていたり、国民の祝日法の説明中で同法とは関係のない国旗日の丸の復活の意義を強調していたりして、戦後の親米反共右翼の先駆のように見える。宮沢はこの協会での活動が後世に残ることを嫌がっていたようである。宮沢に関する伝記的な研究書を見ても憲法普及会、憲法普及協会での活躍については一言も触れられていない。同書に添付されている業績目録でも、どうでもいいような随筆類まで丹念に拾われているが、憲法普及会、憲法普及協会関連の著作は漏れていて記載されていない。

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