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連載

途上国の経済発展――インドから考える

第1回 デリーへの道

一橋大学経済研究所教授 黒崎卓〔Kurosaki Takashi〕

はじめに――南アジア経済研究事始め

 私は、南アジア地域の経済を対象とした大学の研究者である。「南アジア」とは、インド亜大陸とその周辺地域を指し、私は特にインド、パキスタン、バングラデシュの3国を研究している。この3国は、1947年までは、イギリスの植民地「インド帝国」を構成していた。2014年国連推計によると、3国合計の人口は16億1100万人であり、世界の総人口の22%を占める。中でもインドの規模は突出しており、人口は12億6700万人、日本の10倍以上である(統計数字の出所はUNDP、以下の「国連推計」も同じ)。

 私が最初に南アジアを訪れたのは、1986年2月のインドで、それから2カ月弱の期間、各地をバックパッカーとして放浪した。1年後にはバングラデシュも訪問した。大学生だったその段階で南アジア経済の研究を志していたが、幸い、学部卒でアジア経済研究所の研究職として採用され、87年4月から現在まで「研究者」として生計を立ててきた。アジア経済研究所ではパキスタンを担当することになり、97年に一橋大学に異動するまではパキスタンが主で、他の南アジア諸国の研究は従だった。駆け出しの研究者が1つの途上国経済の全体像をつかむという意味で、超大国インドでなくパキスタンの担当になったことは、稀なる幸運だったと感じている。

南アジア主要3国の経済を比較する

 とはいえ大学に異動し、同じタイミングでパキスタンの治安が悪化していったこともあり、その後の研究ではインドの比率が増えて今日に至る。同じ1つの植民地だったという歴史ゆえに、1947年の分離独立が生み出した政治体制や制度の違いの長期的効果を、3国の比較研究によって明らかにできるのではないかというのが、現在の最大の研究テーマである。

 1987年9月にパキスタンを最初に訪問した印象は、観光地に乞食が溢れているインドや農村にゴミが溢れているバングラデシュと比べて、乞食もゴミも少ないパキスタンの所得水準が最も高く、極度の貧困が少ないというものだった。反面、教育ではパキスタンが3国で最も遅れており、男女間の格差でも深刻な問題を抱えていた。

 それから約30年が経ち、所得水準での比較ではインドがトップになった。国連推計で2014年の1人当たり実質国民所得を見ると、近年、高度経済成長を続けているインドの値はパキスタンを13%ほど上回り、バングラデシュも着実にパキスタンに追いつきつつある。

 私が見聞きした約30年間の個人的経験は、より長期の統計でも確認できるのだろうか? 私は一橋大学への異動以来、20世紀初頭からの3国経済の長期変化を明らかにする統計推計作業に携わってきた。図はその研究成果のひとつである。1人当たり実質GDPという指標で見た場合、20世紀初頭では、現在のバングラデシュ地域が最も豊かで、他の2地域はもっと貧しかったが、植民地期を通じてバングラデシュ地域ではマイナス成長、パキスタン地域ではプラス成長、インド地域ではほぼゼロ成長だったため、分離独立時にはパキスタン、インド、バングラデシュの順位に変わった。分離独立後、現在のパキスタンの支配下で「東パキスタン」として知られたバングラデシュ地域は1950年代、60年代にほとんど経済成長せず、この間、パキスタンが最も急速に経済成長した。私が最初にパキスタンを訪問した1987年は、振り返ってみると、20世紀を通してパキスタンの1人当たりGDPがインドを最も大きく上回った時期だったのだ。インドは80年代半ば以降、成長率が上昇し、20世紀から21世紀への変わり目頃にパキスタンを追い抜いたとみられる。

図 インド,パキスタン,バングラデシュにおける1人当たり実質GDPの長期的推移

出所:筆者による推計(詳しくは,Kurosaki [forthcoming]を参照)。

注:横軸は年度(“1900”は1900/01年度,“2000”は2000/01年度)である。1971年以前にはバングラデシュという国家はなかったし,1947年以前にはパキスタンという国家はなかったが,この図は,現在の3国に相当する地域の人口が生み出したGDPを推計することによって,20世紀初頭からの所得水準を示すものである。

長期滞在、そしてそのためのリサーチ・ビザ

 私の研究において、マクロの長期経済成長はサブのテーマで、メインのテーマは、南アジア主要3国における世帯・労働者・企業といったミクロレベルの実証分析である。開発政策や市場の発展などがこのようなミクロ主体にどのようなインパクトを与えてきたのか、そのインパクトが国によって違うならばその理由は何か、そして効率的に貧困削減や経済成長を進めるにはどのような政策が望ましいのかを考えるという研究である。

 このようなミクロの実証研究では、資産や学歴や階級などに応じて多様な経済行動が見られることに焦点が当てられる。その解釈には、データの背後にある現場感覚が重要になるが、私はこれまでそれを、インド37回、パキスタン29回などの短期訪問(最長でも約2カ月)で学んできた。

 しかしこれは言い換えると、1度も長期滞在していなかったということだ。地域経済を理解する上で、季節ごとの変化を肌で感じておくことの重要性は言うまでもない。そこで2016年9月末から、約1年間、インドの首都デリーにてサバティカル(研究専念休暇)を過ごすことにした。インドでの受け入れ先はすぐに決まり、招聘状も届いた。残るは長期滞在のリサーチ・ビザである。

 インドは外国人研究者が研究のために長期滞在するのをあまり好まず、その意味で社会主義的な体質を持つ国だと言われる。私の前職場であるアジア経済研究所からは、多くの研究者が1年から2年、研究のために派遣されていたが、リサーチ・ビザの取得が難航し、必要書類を揃えて申請してから、半年以上もビザが出ないまま、ひたすら待ち続け、そのうちに訪印意欲をなくした同僚を多く見てきた。そのような中途半端な状況をあまり気にせず、忘れていた頃に「ビザが出たよ」と何事もなかったかのような涼しい顔でインドに出かけるような心持ちの在り方が要求されたのが、一昔前のインド研究者だったのだ。

 さてIT産業の伸長が著しい近年のインドでもまだ、このようなリサーチ・ビザ取得の「伝説」は生きているのだろうか? 自分で体験するしかない。

 在東京インド大使館およびインド・ビザ・センターに問い合わせる。リサーチ・ビザの申請は観光ビザなどと同様にビザ・センターから行うが、鍵となる書類が、インド大使館が発行する「リサーチ・ビザ発行許可証」であることが分かった。この許可証の取得には大使館が受け付けてから2カ月から6カ月かかるので、十分な時間的余裕を持って申請するようにとの注意書きがあった。現地からの招聘状以外にも職場の推薦状他さまざまな書類が必要で、これらを揃えて大使館に出したのが2016年4月7日。本当に6カ月かかったら9月中の訪印は無理だなあ、と不安がよぎる。

 しかし大使館からはわずか2週間後に許可証が届いた。そして8月になり、さらにいくつかの書類を揃えてビザ・センターに赴き、記載内容不備でゼロから申請書を作り直させられたことを除けば、無事に書類を提出できた。ビザ・センターに書類を出してからは、進展状況が毎日電子メールで届き、数日後に1年間有効のリサーチ・ビザが入手できた。実にスムーズな取得。以前の話は、今や伝説にすぎなかったのだ。

「インディア」か「バーラト」か?

 IT化された都市的世界、消費生活を享受する中産階級が闊歩するインド世界と、停電どころか非電化農村も多く、絶対的貧困者が多数生活する農村的インド世界を対比させて、インド人は時たま、後者を「バーラト」と呼ぶ。バーラト(Bharat)とはヒンディー語でのインドの国名である。教育で言うと、インドのIT産業の競争力の源泉とも言われる数学の能力にたけたエンジニアが多数生まれている世界が「インディア」(India)で、1桁の足し算引き算すらできないまま公立小学校だけで教育を終える人口が膨大な比率を占める世界が「バーラト」なのだ(Das and Zajonc参照)。今回のスムーズなビザ取得は、ある意味「インディア」世界の成功を反映していると言えるかもしれない。

 この連載では、次回以降、住んでみて感じる「インディア」と「バーラト」の対比、それが意味する経済発展論へのインプリケーションなどについて書いていきたい。1年間、お付き合いいただけると幸いである。

引用文献

Das, J. and T. Zajonc, “India Shining and Bharat Drowning: Comparing Two Indian States to the Worldwide Distribution in Mathematics Achievement,” Journal of Development Economics, 92(2) July 2010, pp. 175-187.

Kurosaki, T. Comparative Economic Development in India, Pakistan, and Bangladesh: Agriculture in the 20th Century, forthcoming from Maruzen Publishers.

UNDP, Human Development Report 2015: Work for Human Development, 2015, New York: UNDP.

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