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書斎の窓

連載


新世代法学部教育の実践

――今、日本の法学教育に求められるもの

第6回(最終回) 法学部教育の新たな地平

武蔵野大学法学部教授・法学部長 池田真朗〔Ikeda Masao〕

1 法学教育とリーダーシップ教育の接近

 前回は、新世代の法学部教育は、これまでの詳細な解釈学重視の教育と訣別するべきとして、解釈論の伝授を「ルール創り」教育に置き換えることを提案した。そのようにすると、実は法学教育は、これまでは非常に縁遠い関係と思われてきた、いくつかのものと接近する。その1つが、いわゆるリーダーシップ教育である。

 たまたま最近、大阪大学の野村美明名誉教授(同大学国際公共政策研究科グローバルリーダーシップ連携分野特任教授)の「リーダーシップ教育と法学教育」というエッセイに接した(DH國際書房『法律書新刊・在庫案内カタログ』41号〔2016年6月〕裏表紙に掲載)。

 そこで野村教授は、「法学教育ほどリーダーシップと縁遠いものはないというと皆納得してくれるのだが」とユーモアを交えて説き起こす(しかし、これまでの解釈学中心の法学教育では、それはまさに事実なのである)。そして、「公的権限を持った人が命令やインセンティブで人々を動かすのは、本来のリーダーシップではない」とされ(これはまさにその通りで、私も全面的に賛同する)、「日本の法律学はリーダーシップに冷たいのだろうか」という問題提起から、「他人の信頼を受けてその人のために行為する者は、もっぱら自分の利益よりもその他人の利益をはかる義務があるということである。これは法律学で言う信認義務(忠実義務)にほかならない」と論理を展開して、「法律学がリーダーシップに無関心なのではなく、日本の法学教育が今の世界に必要な他人のために働く人材の養成に適応しきれていないのではないだろうか」とまとめられるのである。

 以上は、「日本で唯一のリーダーシップ教育をする法学者」と自己紹介される野村教授の、グローバルなリーダーを育てようとするプログラムのコーディネーターとしての意見であるが、その意見は、私見のいう「それぞれの人の集団におけるリーダー」論にとっても、大いに共感できるものを含んでいる。

 ただおそらく、両者は発想の目線が逆なのであろうと思う。私は、あくまでも「個」つまり学生一人ひとりに対する法学教育のありかたを語ろうとしている。一人ひとりに、「ルール創り」の視点と能力を植え付けることを目的にするのである。それゆえ、「集団から見たリーダー論」からリーダーを育てようとしているわけではなく、「ルールを創れる人」を育てることで、各人に自然とそれぞれの所属する集団の人々との「共生」の目が養われ、その結果、集団のリーダーになっていくような資質と能力が備わるという法学教育を、実現したいと考えているのである。

 けれども結果的には、その私の「共生」の発想は、野村教授の言う「自分の利益よりも他人の利益をはかる義務」と共通するはずである。そして「日本の法学教育が今の世界に必要な他人のために働く人材の養成に適応しきれていない」という同教授の指摘は、解釈学偏重の欠点を論じる私見からは、まさに同感ということになるのである。

2 法学教育と政治学教育の接近

 もう1つ例示的に言えば、私見のように解釈論の伝授を「ルール創り」教育に置き換えると、法学教育は、政治学教育と親和性を増すと思われる。わが国の法学部には、法律学科と政治学科を擁するところが比較的多いのだが、私の前任校時代の経験では、この2つには実は共通項は非常に少なかったように思う。

 独善的な理解になってしまうかもしれないことを恐れるが、現代の政治学は、経済学(計量的手法を含む)や社会学(心理学的アプローチを含む)等の方法論を貪欲に取り入れ、また国際的な視点を非常に強く持つに至っている。進取の気概に富んだ、ヴィヴィッドな学問分野であるように見えるのである。しかしながら、一方の法学は、緻密な解釈論に固執する限り、それら現代政治学の姿勢と対話する視点をなかなか持ちえないように思われる。

 けれども、法学教育のポイントを解釈論から「ルール創り」にシフトさせれば、子育てや地方自治から国際条約レベルまで、いわば社会のルール創りのプロセス論としての政治学とは、(少なくともこれまで以上に)接近することはまず疑いのないところと思われるのである。今後は「ルール創り」をキーワードとして、法学教育と政治学教育が連携する場面を、カリキュラム的にも創出していくことができないであろうか。1つの課題として提示したい。

3 法学教育の理念と実践の関係

 さて、1年間(隔月6回)にわたっての本連載も、今回が最終回である。ここからは、すでに予告した通り、法学教育における理念と実践の関係を考察して結びに向かうこととしたい。およそ法学教育に限らず、教育は実践の中にある、というのが私の信念である。いくら立派な教育論を提示しても、実践による検証を伴わなければ、それはほとんど何の意味もない。

4 教育は理念のためではなく学生のためにある

 近年、各大学でFDとかIRという教育改革が浸透しはじめている。FDとはFaculty Development、すなわち「大学教員の教育能力を高めるための実践的方法の開発」のことであり、具体的には、大学の授業改革のための組織的な取り組みなどを指す。IRとは、Institutional Researchで、直訳すれば「機関調査」であるが、大学のさまざまな情報を把握・分析して数値化するなどして、結果を教育や研究、学生支援、経営などに活用することを意味する。そして、キャップ制、ナンバリング、アクティブ・ラーニング、ルーブリック評価、などという、横文字の多い様々な制度の導入が推奨されている。私は、それらの試みについて否定するものではないし、それらは適切に組み合わせれば大いに効果を上げるものと考えている。しかし大事なことは、教育は、理念や制度のためにするものではなく、学生のためにするものだということである。

 ことに、教育というものはマスデータでするものではなかろう(いわゆるビッグデータの統計的分析が役立つことも確かにあろうが、マーケティングなどと比較すると、教育では個別対応の重要性がずっと高いと私は考えている)。様々な分析データの数字が一人歩きすることには私はいささかの危惧を覚える。一人ひとりの学生の「顔の見える」教育を実践することが私の理想なのである。

5 「インターンシップ」への疑問

 また実践といっても、はやりのインターンシップによって「就業体験」を積むことは、職業選択には有益かもしれないが、ほとんどの場合、「法律学」そのもののアクティブ・ラーニングになっているわけではないと私は思う。

 ことに最近、数カ月間にわたって企業で働きながら職業観を養う長期インターンシップに取り組む大学が増えてきているという。大学1、2年生の段階で長期の就業体験をして働くことの面白さを知ってもらうというのだが(そしてそれが文部科学省も推奨するアクティブ・ラーニングの一環になるということのようだが)、私は、こと法学部法律学科に関しては(政治学科は別論とする)、このような就業体験教育には消極的である。というか、法律学科の学生に向くような就業実習というものはあまりないのではないかと思うのである。

 つまり、前回も述べたように、私の考える法学部の「専門」教育は、(法曹養成などは副次的に考えて、「ルールを創れる人を育てる」ことをメインテーマにする場合も)法律という専門を身に付けた、頭脳労働のプロを養成するものであることに変わりはない。そうすると、体で覚える実習体験などとは異なり、実習でも契約書の作り方とか交渉術などを学ばせるべきなどということになって、そういうものは(具体的なケーススタディなどということになると企業秘密や外部に公開しにくいものも多く含まれることになり)そうそう大学の1、2年生などに現場で訓練するわけにはいかないはずなのである(それに加えて、そのような実習をするためには一定の法律知識の蓄積が先行条件になるはずである)。

6 企業等との「エクスターンシップ」の試み

 そこで、それらとは異なるものとして、武蔵野大学法学部法律学科では、3年生を対象に、「エクスターンシップ」という科目を新設して、就職活動などとは切り離した、一段次元の高いアクティブ・ラーニングを実践しようとしている。これは、企業側がイニシアチブを持つ「インターン」の就業体験とは全く異なり、大学側が正規カリキュラムとして企業等に協力を依頼するものである。その目的は、大学の教室で学んでいる法律が現場でどう生かされているのかを知るというところにあり、企業や官公庁、業界団体等の活動の中で「生きている法律」を学ぶことにある。いささか大げさな言い方をすれば、目指すのは「新しい産学協働」の形であり、大学内限定の法学教育から「社会活動・企業活動での法」を学ぶ教育への進展・連結を計ろうとしているのである。

 具体的には、春の第1学期に企業、官庁、業界団体等から講師を大学に派遣していただき、秋の第3・第4学期には、それらの企業等に学生をグループに分けて派遣して、見学や実地講義を受けるという構成を採っている。

 その内容も、各種の特徴的な契約(民法)、コンプライアンスや株主総会(会社法)、経済と法律の関連(金融法)、コンピュータ社会・メディア社会と法(知的財産法、IT関係法)などという、本学法律学科設置科目(カッコ内が科目名)にリンクさせた諸点を重視した実践学習をすることにしている。見学の後には授業で報告会をさせる。

 2016年度から開始したばかりで、まだ丸1年たっての検証もできていないので、ここでは具体的な協力企業・官公庁等の名称を公表することは控えるが(本年春の本科目の外部講師実績は、建設会社1、商社1、出版社1、官庁2、業界団体2、さらに別授業枠で金融機関1である)、未だ他大学にはない試みであると申し上げられよう。

7 わがDP・CP・AP論

 今般、学校教育法施行規則が改正され、全ての大学は、「卒業認定・学位授与の方針」(DP、ディプロマ・ポリシー)、「教育課程編成・実施の方針」(CP、カリキュラム・ポリシー)及び「入学者受入れの方針」(AP、アドミッション・ポリシー)の3つのポリシーを一貫性あるものとして策定し、 公表することとされた(改正分は平成29年4月1日施行)。これを受けて、中央教育審議会大学分科会大学教育部会では、平成28年3月31日に、この3ポリシーの策定及び運用に関するガイドラインを発表している。その冒頭には、「大学には、学術研究を通じて新たな知を創造するとともに、自らの教育理念に基づく充実した教育活動を展開することにより、生涯学び続け、主体的に考える力を持ち、未来を切り拓いていく人材を育成することが求められる」とうたわれている。すでに平成25年度時点で、9割以上の大学がこれら3つのポリシーを策定し公表していたのであるが、その内容については、抽象的で形式的な記述にとどまるものや、 相互の関連性が意識されていないものもあることなどが指摘されていた。

 私は、全国の大学が、学長の適切なイニシアチブのもとに、自律的、個性的な教育理念を確立してそれを実践することは非常に結構なことと考えている。しかし、教育というものは、先に書いたようにマスデータでするものではないし、観念的な標語を連ねた表現だけで表わされるはずのものでもない。DP、CP、APは、具体的な形で実践されなければ意味がないのである。したがって、ここまで本稿で掲げた様々な試みは、すべて所属大学のDP、CP等の具現化を意識してなされていることを述べておきたい。

8 教育の真髄はどこに

 私は、かつて前任校の9月卒業式の教員代表祝辞で、自らの考える教育の真髄について、2つの点にあると述べたことがある(池田真朗『新世紀民法学の構築』〔慶應義塾大学出版会、2015年〕に収録)。その第1は「付加価値」ということであった。

 付加価値というのは、つまり、誰が教えても同じというのではまだ本当に良い教育とは言えない、ということである。このことはもちろん、各大学での教育レベル向上のためのFD研修などを否定するものではない。ことに経験の浅い若手教員たちに一定の教育ノウハウを得させるためには(そしてシニア教員の無自覚的なひとりよがりの教育を改善するためにも)、そのような研修は必須であろう。けれども、研修で教えられたとおりに授業をしているうちは、まだその教育の質の向上には限界があると私は考えている。

 教育技術から言えば、同じ知識でも、いかにわかりやすく、深く、そして忘れにくく教えられるか、というのがまず大事なことであろうし、その知識をいかに応用して使いこなせるか、を教えることがさらに重要である。このあたりまでは、マニュアル的な研修指導でもある程度はクリアできるかもしれない。けれども、教わる学生のほうの性格や能力は千差万別なのである。そう考えてくると、教育にこの付加価値をつけるためには、単なる知識伝授の技術の問題ではなく、一人ひとりの学生の人間性の把握も必要になってくる。どういう性格の学生で、問題意識はどこにあり、どういう進路を希望しているのか、というところまでを把握して、その学生に合わせた指導をするのである。

 そのような学生個々人の個性の把握は、ゼミナールならできるけれども大教室では無理、というご意見が多いかもしれない。しかしそうだとすると、ゼミではできて当たり前で、大教室でやってこそ「付加価値」がつくということになるのである(たとえば第2回に書いた大教室双方向授業は、そういうところまでを目指して開発されるべきものである)。

 そのうえで、私の考える教育の真髄の第2点を言えば、これは自ら書くのは気恥ずかしい思いもあるのだが、やはり「愛情」であろうと考えている。その学生のために良かれと思って教える愛情、これがないと、教育というものは、いくら技術的に優れていても、伝わらないし、残らないし、つながらないのである。

 親から十分な愛情を注がれた人は、多くの場合、自分の子供にも同じように愛情を注ぐ。同様に、指導教授に愛情をもって鍛えられた弟子は、また自分の弟子にも同じように愛情を注いで指導をする。ゼミやサークルで先輩にいろいろ親身に教えてもらった学生は、後輩たちにも同じようにしてあげる、という循環が成立するのである。

 この循環の成立については、私は長年の教育経験から、それが真理であると思っている。実際、私の場合、前任の慶應義塾大学のゼミでは、先輩が後輩を教えるという慣行を確立させていたのだが、最後のゼミ卒業生たちは、司法試験受験後に、教える後輩がいないからという理由でボランティアで武蔵野大学の有明キャンパスに来てくれ、毎週当然のように(先輩のいない)法律学科1期生を指導してくれた。

9 結びに代えて

 と、ここまで書いて、私は前言を繰り返さなければならない。教育は実践の中にある(というよりむしろ、実践の中にしかない)。それゆえ結果がすべてなのである。結果を提示できないうちは、私見は何の説得力も持つものではない。今後数年の実践を積み重ねて、新しい法学部の卒業生をしかるべき進路に送り、かつ彼らがそれなりの活躍をして、ようやく本稿の論理は客観的な評価に供されるものとなりうるのである。

 本連載を活字にしてしまった者の責務として、その日までできるだけの努力を継続することを誓い、またこの連載の機会を与えてくださった編集部に感謝して、とりあえず筆を擱くこととしたい。毎回の連載を熱心にお読みいただいて、様々な感想をお届けくださった、多くの読者の皆様にも、心からの感謝を申し上げる次第である。

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