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書斎の窓

コラム

国立大学の憂鬱

――批判のレトリックをめぐる攻防

オックスフォード大学社会学科・現代日本研究所教授 苅谷剛彦〔Kariya Takehiko〕

 2015年9月、海外の日本研究者を中心に、日本の国立大学の人文・社会系学部廃止に抗議する声明への賛同を求めたり、文部科学省に対する抗議文への署名依頼を求めるメールがたびたび届くようになった。2015年6月に出された下村博文文部科学大臣名による国立大学学長宛の「通知」が巻き起こした海外での反応である。内容はどれも類似していて、文科省の愚挙への怒りや抗議に満ちていた。Times Higher EducationやJapan Timesが報じた記事などへのリンクが貼られていることがしばしばあった。

 通知の問題箇所は次の通り。


 「特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする。」


 この「組織の廃止」や「転換」を求める(思慮と知性を欠いた)表現が、日本に関心を持つ海外の研究者、日本の大学に勤める外国人教員を刺激したのである。それが海外メディアでの報道などを経て、研究者個人の怒りや疑念にとどまらず、海外に拠点を置く日本研究関連の学会や、日本研究を含む海外の人文社会系の研究者・専門職団体に働きかけ、文科省の「廃止案」に抗議声明を出すことにつながった。いわば、海外から「外圧」をかけようという運動へと発展したのである。

 日本の教育制度をよく知る者にとってみれば、文科相名の一通の通知で国立大学の改変や廃止が直ちにできるものではないことは常識に属する。しかし、英語で書かれたメールや海外メディアの報道を見る限り、そのような常識よりも、文科省の通知の方が「さもありなん」として受け止められた。

 その後、各方面からの批判が広がると、国内では文科省もこの通知の文言が「誤解」を招くものであったことを指摘し、「廃止」や「転換」が主に教員養成課程の一部にとどまるとの修正を始めた。にもかかわらず、一度海外に広まった情報が簡単に消せるわけではない。日本を対象に研究する海外の専門家にしても、いや、彼らだからこそ、現在の政権がトップダウンでそのような政策を実施しかねない、「さもありなん」という日本理解が背後にあるからだろう(例えば与党政治家による歴史修正主義的な発言や、国立大学学長への国旗国歌の取り扱いについての「適切な実施」要請など)。タカ派で新自由主義的な安倍政権の一人勝ちと、それに対する対抗力の弱化という日本理解が背後にあり、国立大学制度についての正確な知識を欠いたままでも、こうした「反対運動」が広まる土壌を形成したのである。実際にメールの中には、国立大学問題に限らず、近年の日本の右傾化を懸念する声が背景説明として多く混じっていた。

 海外での「誤解」の修正の周知徹底は難しい。しかも、反対運動を広めようとした専門家たちの多くは、国内外における知日家・親日家集団の主要メンバーである。彼らがそれぞれの国で日本理解をどのように広めるか。それが、日本人による日本からの情報発信(質量両面で限界があり影響力も小さい)以上に、国際社会における日本理解を左右する。さらに、将来の知日家の卵とも言える、日本の社会や文化についてこれから学ぼうとする学生たちにも誤った知識を残したとしたら、留学生を増やし大学のグローバル化を進めようとしている現政権の政策にとっても、禍根を残す失態である。

 下村大臣の後任の馳浩文相は、「通知」の日本語力を作文に見立て、「あの文章は、私が国語の教員だったら32点ぐらいしかつけられない」と言ったそうだが、こうした皮肉は海外では冗談にもならない。しかも、文科省は結局この通知を撤回しなかった。重要な政策文書が安易な誤解を生む文章であっても、それが誤読の余地ない外国語に訳され、それでも修正も撤回もできない。官僚の無謬性の尊重かもしれないが、そのような論理は海外では通用しない。その結果、「誤解」は、「さもありなん」という今の日本理解をさらに強化する出来事として残ってしまった。世界から日本がどのように見られているか。そこで流布する知識や情報が日本にどのような影響として跳ね返ってくるか。グローバル化を進める政策を掲げている割りには、このような国際社会の反応の重要性に無頓着な、日本国内でしか通用しない、あまりに日本的すぎる官僚的レトリックの典型である(この現象自体、現代日本研究の興味深いテーマになる)。

人文系の危機とそれへの対応

 もちろん、国家と大学との関係は、財政的な支援とそれに見合うアカウンタビリティーと関連して、日本だけで問題にされているわけではない。イギリスでも人文系への厳しいまなざしが向けられている。

 それに対する大学側の反応の一例として、2013年にオックスフォード大学(国立大学である)が発表した『人文学の卒業生とイギリス経済:隠されたインパクト』というレポートについて紹介しよう(注)。この報告書は、1960年から89年までにオックスフォード大学の人文系の学部卒業生およそ11,000人(哲学、歴史専攻がマジョリティを占める)のその後の職業的キャリアを分析し、人文系の大学教育がイギリス経済の要請に応える人材を輩出してきたことをデータによって示そうとした調査レポートである。周知の通り、イギリス経済は金融を中心としたサービス経済、あるいはIT化などのメディア産業にシフトしていった。こうした大きな変化に対応して、これらの分野での雇用に、オックスフォードの人文系卒業生が、イギリス全体の雇用動向の変化よりも迅速かつ相対的には規模の点でも申し分なく対応してきた証拠エビデンスを示す。そこにねらいがあった。さらには、50名の卒業生を選び、緻密な面接調査を行うことで、オックスフォードでのチュートリアル(毎週たくさんの課題文献を読んでエッセイを書き、教授と議論する個別指導)を中心とした教育が、その後の人生の中で、コミュニケーション能力や問題解決能力、批判的思考力などを高め、職業に留まらず市民社会への貢献などにおいても有用な能力や知識を提供してきたことを事例として示そうとしたのである。

レトリックとそれを許容する文化

 ただし、ここで注目したいのは、こうした調査の結果自体ではない。世界でも有数の人文系の学部教育機関を擁するオックスフォードにおいてさえ、このような「事実=エビデンス」による反証を加えなければならないほど、世間に流布する大学教育への臆見が、高等教育政策を歪めようとしている。そうした社会の趨勢への警鐘として、このレポートが書かれたことに目を向けたいのである。

 このような報告を公表せざるをえなくなった政治的背景について、レポートは次のようにいう。


 「人文系の教育がイギリスの高等教育において、長期にわたり確立してきたその中心的な位置と一般的な価値が、近年の教育政策によって揺るがせになっている。知識を、経済の要請に直ちに従う、市場によってその必要性が喚起され支配されるようなスキルや実用的な情報だとみなすようなアプローチの影響である。」


 日本の「通知」にも共通する、社会からの「要請」への機敏な反応を求める力の存在の指摘である。たしかに、チュートリアルを中心とした人文系大学教育は、ビジネスに有効な「経済の要請」に応えるだけではない。批判的思考力や判断力の育成を始めとする知的な鍛錬としても価値がある——こうした教養主義の古典的な原理原則で反論をするにとどまらず、数値で示したエビデンスや個別ケースの詳細を対置させることで、新自由主義的な政治的要求をはねかえそうとする。もちろん、見方を変えれば、新自由主義の圧力が、人文主義教育の牙城とも言えるオックスフォードにまで及んでいるとも言える。

 こうした趨勢に対し、調査の知見をもとに、結論部では次のように宣言する。


 「私たちには責任がある。人文系大学教育に関わるいかなる主要な改革も、慎重に体系づけられた、中立で第三者的な立場に立つ詳細な研究に基づいて、設計され、評価されなければならないという責任である。」


 一見すると、ここにはたしかにエビデンスを仲立ちにした議論のやり取りがある。教育の有効性を示す数値を提出することで、とりあえず、新自由主義側の手法に則って反論を試みるという対応である。だが、ここでの議論の中心は、どちらのエビデンスが正しいかをめぐる争いを目指してはいない。そのような判定に明確な線引きなどできないことを、百も承知の上で、相手の議論の仕方をまずは取り入れ、その限りで有効なデータを提示しながら、その前提自体を批判する。そういう手法がとられているのである。

 報告書の随所に、計量的に示された卒業生調査やインタビュー調査の限界が言及され、その度に、注意深いデータ収集と分析の必要性、さらには簡単に一方の(それも時代の思潮と言えるような)価値に偏しない立場からの判断の重要性が指摘される。そのような議論の提示の仕方自体が、「経済の要請」のなんたるかを具体的には特定できずに、入手のしやすいデータだけに頼って安易な判定をくだそうとする、エビデンスをめぐるヘゲモニー争いともいうべき議論のあり方への批判と警鐘になっている。それがどれだけ影響力を持ったかは別の問題だが、原理原則には耳を貸さない確信犯的な新自由主義者に対しては、その議論の底の浅さを明かすのに成功している。歴史と文化の懐の深さの表出といえるだろう。

 日本の国立大学も、戦後民主主義のもとで再出発して70年近くが経つ。「国策大学」からの脱皮は、社会の批判的思考力の向上を含めて、大学自身の力に俟つよりほかない。国家と社会の健全な関係を作り出す上で、その仲立ち役として大学があるからだ。「国(税金)立」であることの社会的責務を誰に負うのか。もちろん、官僚や政治家が主たる対象でないことはいうまでもない。議論の底を見通す、人びとの人文主義的洞察力が求められる所以である。もちろんその力は簡単には計測できない。


(注) Humanities Graduates and the British Economy: The Hidden Impact, July 2013, University of Oxford

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