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書斎の窓

連載

残照の中に

第5回 十和田

東北大学名誉教授・元最高裁判所判事 藤田宙靖〔Fujita Tokiyasu〕

 「十和田」と聞けば、十和田湖を思い浮かべることはあっても、十和田市に思いを致す者は、さほど多くはないであろう。十和田市は、青森県の東南、八甲田山と十和田外輪山の山麓から三本木原にかけて拡がる、同県では恐らく面積最大の部類に属する地方公共団体である。その元々の母体は、新渡戸稲造の祖父である新渡戸傳等が開拓の基を築いた三本木町であるが、昭和30年、周辺町村を集めて旧十和田市が生まれた。平成17年には、十和田湖を持つ十和田湖町と合併して、現在の形となっている。しかし、7万人弱の人口の半分は、2キロメートル四方ほどの三本木地区に集中しており、中心市街地から最も近い新幹線の駅は、東北新幹線七戸十和田駅なのだが、そこからは、人家もまばらな田野の中を車で30分以上も走るという、率直に言って、本当の田舎町である。


 10月下旬、この十和田市で、来日中のゲーテ・インスティトゥート(Goethe Institut)総裁クラウス=ディーター・レーマン氏(Prof.Dr.h.c.Klaus=Dieter Lehmann)の講演会が開かれることになった。この講演会は、仙台日独協会が主催するもので、私は、2年前から同協会の会長を仰せつかっていることもあって、仙台駅から一行に合流し、同市を初めて訪れることとなった。

 周知のように、ゲーテ・インスティトゥートは、広く全世界98か国に159の出先機関を置いて、ドイツ語及びドイツ文化の普及のために精力的な活動を展開している、ドイツ連邦共和国の代表的な文化機関である。私自身を含めかつてドイツに留学した経験のある者の中に、その名を知らない者はいない。こうしたグローバルな機関の総裁が、よりにもよって東北の果て、それも、恐らくは奥入瀬渓谷のベースキャンプとしてくらいにしか全国に知られていない十和田市を訪れて講演をするということ自体、いささか不思議に思われる向きもあるかも知れない。

 仙台日独協会は、30年ほど前に、大学関係者のみならず、広く市民一般をメンバーとして設立されたものであるが、それを起動された故ウォルフガング・ウィルヘルム氏(Dr.Wolfgang Wilhelm。当時東北大学文学部ドイツ語教師)と、同氏が若くして急逝された後は奥様の菊江さんの、文字通り渾身のご尽力で、現在に至るまでドイツ大使館やゲーテ・インスティトゥートとは、きわめて良好な関係を保ち、様々の支援を受けて来ている。同協会が主催するレーマン氏の講演会は、これで3度目となるが、今回は、前年に仙台市の東北学院大学で行われた講演会の際に、かねてより十和田市現代美術館の話を聞いて関心を持たれていたレーマン氏が、来年は是非訪問する機会を持ちたいと希望されたことから、話が進んだのである。


 十和田市現代美術館が何であるかについて、私はそれまで全く知らなかった。私には、そもそも「現代美術」という概念自体についての理解がなく、これを漠然と、例えば「抽象絵画」といった観念と混同していたようである。初めて訪れた十和田市現代美術館は、このような私に、衝撃と言って良い程の強烈な印象を与えた。

 平成20年(2008年)4月に開館した同美術館の概要については、今日では既に、インターネットで容易にこれを検索することが出来る。ウィキペディアに詳細に紹介されているように、同館は、十和田市街地の目抜きにある「官庁街通り」(!)という名の大変瀟洒な並木通りに面しており、敷地面積は4,300平米強、建築面積ほぼ1,700平米であるというが、市街地に開放された敷地には、建物の外にも、さらには路上においても、様々のオブジェが展示されていて、実際に感じられるスケールは、この数字を遥かに越えたものである。「ひとつの作品に対して、独立したひとつの展示室が与えられ、これらをガラスの通路で繋ぐという構成により、美術館自体がひとつの街のように見える外観をつくり出しており、来館者は街の中を巡るように個々の展示室を巡り、作品を見ることができるというユニークなものとなっている」(同)。これらの展示品は全て、開館に当たって、同館のために、我が国のオノ・ヨーコ、草間彌生等を始めとする、世界各国の芸術家達が特別に製作したものである。そして恐らく、十和田という辺境の地であったればこそ、このような自然環境の中に、このように贅沢な美術館を新たに建設する余地があったというべきであろう。

 美術館に近づくと、まずは、後ろ足で立ち上がった巨大な花馬(フラワー・ホース)や、ジャイアント赤蟻(アッタ)が我々を迎える。最初の展示室に足を踏み入れると、身の丈3メートルはあろうかという巨躯のお婆さんが、ギョロ眼を剥いて、上から我々を睨みつけていて、その余りの迫力に、アッとたじろぐ。このお婆さんの周りには、ロープが1本回されているだけだが、ガイドの御嬢さんの説明によると、このような囲いは元々なかったのだけれど、観客の中に、スカートの下から覗こうとする輩がいるので(!)、やむを得ずこうした、と言う。また別の部屋は、剥き出しの壁の、倉庫のような薄暗い部屋の真ん中に、何の愛想もない机が1つ置かれ、その上に椅子が1つ。椅子の真上には、天井に丸い穴が開き、上から光が差している。よく見ると、天井の別の一隅に、オットセイかカワウソか何かの水棲動物の下半身のようなものがぶら下がっている。椅子の上に立ち上がり、天井の丸窓から恐る恐る首を出して、そこに見えた世界は……。

 このように、この美術館は、「美術館」と言う堅いイメージとは異なり、一種アトラクションホールのような魅力をも備えている。こうしたことから、単に美術愛好家に限らず、広く市民一般に愛されているようで、次々と訪れる観客の中には、小さな子供を連れた若い夫婦等も、何組も見掛けたのであった。


 さて、レーマン氏を、そして私自身をもまた惹き付けたこの贅沢な美術館が、どうして、また、如何様にして、十和田市という辺鄙な街に存在し得たのかは、誰しもが抱く疑問であろう。20億円を越える建設費は、民間の大企業や富豪が出したのではなく、全て十和田市の公費から支出されている。しかし、十和田市が「六ヶ所村」からさほど遠くはないことに気付くならば、これはさして驚くことではない。つまり同館建設費の9割以上は、電源3法交付金で賄われているのであって(参照、河北新報2015年1月28日朝刊)、原子力マネーをどう評価するかには、様々な考え方があるであろうが、少なくともここでは、それがなくてはあり得なかった、貴重な文化の華を咲かせているのである。


 レーマン氏は、私と同じ1940年生まれ。元々は大学で数学及び物理学を学んだ理科系の人であるが、早くから図書館員としての勤務を始め、1988年に、フランクフルト・アム・マインのドイツ国立図書館の館長となり、東西ドイツ統一直後の1990年には、ライプチヒのドイツ国立図書館長をも兼任した。1998年には、ベルリンの、(図書館と文書館以外に20の博物館や美術館を管轄する)プロイセン文化財団の総裁となり、東西に分裂し又収蔵品も散逸したこれらの施設の整理・統合等の事業の総指揮をとることとなった。古代オリエント遺跡・遺物の収蔵で有名なペルガモン博物館を含む、ベルリンのいわゆる「博物館島」の整備は、今もなお着実に進みつつあるが、それと並行して現在では、かつてのベルリン王宮の再建計画が進んでいる。これまでの「博物館島」がヨーロッパ文明の歴史を展示するのに対して、ここでは、日本を含む東アジアやインド、民俗学のコレクションが移転、展示される予定である。この建物は、「フンボルト・フォーラム」と名付けられ、まさにベルリンの中心地において、21世紀の世界に欠かせない、文明の対等性と対話の象徴になることが期待されている(レーマン氏講演より)。


 講演は、美術館1階の、市街地に大きく開けた素通しのガラス壁を持つカフェロビーで行われたが(「ドイツ社会での芸術の意義」と題するこの講演の概要については、東奥日報平成27年10月24日記事及びデーリー東北同10月27日記事が報道している)、その最後、質疑応答に充てられた時間ももう終わりというところで、聴衆の中から、「大英博物館にしてもルーブル美術館にしても、その重要な展示品の中には、過去植民地から収奪して来たものが多いが、これは、ペルガモンを始めとするドイツでも同様ではないか。このことについてはどのように考えているのか」という質問が飛び出した。これと同じ質問は、未だ「壁」が崩壊する前の1973年、私が初めてペルガモン博物館を訪ねた時、ガイドツアーの西側の訪問客の中から出されたものであったが、ガイド氏は、平然として、「御指摘の通り、資本主義国家は、現地から収奪して来たのだが、社会主義国家は、現地の承諾を得て、放置されている物を拾って来たに過ぎません」と言い放ったのであった。しかし言うまでも無く、同博物館の収蔵品は、社会主義国家「ドイツ民主主義共和国」(DDR)が成立する以前から、そこにあったものである。

 このいささかデリケートな質問に、司会者は、既に予定の時間が過ぎているからとして、打ち切ろうとしたが、レーマン氏は「これは大変重要な問題だから」としてそれを遮り、時間を掛けて、概要次のように答えた。「東西ドイツの統一が成った後、私達は直ぐに、これらの展示品をどうするかについて、原地国との話し合いを始めた。そして相互に慎重に話を進めた上で辿り着いた結論は、次のようなものであった。すなわち、これらの展示物は、本来原地国のものであり、返却されるべきである。しかし、現状における保管状況は優れたものであり、これを原地国に戻してそこで保管することは、現実的でも合理的でもない。したがって、今後もこのままの状態で保管・展示を続けるが、それは、両国の共同で行うのであり、その在り方については、両国が今後とも折に触れ、協議する。」

 レーマン氏の風貌や物腰態度もあってであろうか、私には、この返答は、そこで紹介されたドイツ側の対応の在り方も含めて、極めて誠実であり、また説得的であるように思えた。講演終了後、氏はやや紅潮した顔で、時間オーバーを謝した後、私に再度「これはとても重要な問題だから」と弁解した。私が、「その通り。でも貴方はとっても上手く答えましたよ」と応じたところ、氏は、にっこり笑って、私の肩をポンと叩いたのであった。


 貴重な文化財の背後には、往々にして、それがなければ恐らく文化財そのものが現実に存在し得なかったであろうところの「負の陰」がある。こういった問題にどのように向き合うか。十和田の訪問は、これを考えるための新たな2つの素材を、私のメモリーの中に積み上げた。

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