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書斎の窓

連載

残照の中に

第2回  安芸の宮島(厳島)

東北大学名誉教授・元最高裁判所判事 藤田宙靖〔Fujita Tokiyasu〕

 宮島は、私の心の故郷である。

 太平洋戦争の末期、終戦(昭和20年8月15日)を挟む数年を、学齢前の私は、宮島の対岸宮島口にある祖父の広大な別荘で過ごした。海(大野の瀬戸)を隔てた正面に厳島神社の朱の大鳥居と社殿とを望む絶勝の中で、遊ぶ友とていない私は、日がな一日所在なく、ただ島と海とを眺めながら日を送っていた。広島に原爆が落とされた日、市内に住む多くの親戚達が、傷ついた身を引き摺りながら辿り着いたのもここであった。

 そして私は、今でも時折、その跡地に建てられた高層マンションの一室に滞在し、周辺の風物の激変の中、それだけは昔と変わらぬ、海の向こうの宮島と厳島神社の姿とに、過ぐる日々を偲んでいる。

 宮島は、日本三景の1つとして昔から著名な観光地であったが、平成8年(1996年)に厳島神社が世界文化遺産に登録されてからというもの、この島を訪れる人の数は、鰻上りに増え、日々、各国各地からの観光客で溢れている。その数は、年間400万人前後に達すると言われ、ゴールデンウイークなどには「島が沈むほどの」人が押し掛ける。しかし、宮島は、その実、我が国の島嶼の御他聞に漏れず、30平方キロメートルの面積に僅か1800人程の人が住む、過疎の島なのである。

 宮島港から神社に至る参道の、銀座や新宿、或いは東京駅のコンコースをも凌ぐ雑踏は、夜になるとその光景を一変する。連絡船で観光客が帰った後は、軒を連ねる土産物屋や飲食店等は、早々に店を閉めシャッターを閉じ、これらの店の従業員達も、そのほとんどは、最終の便が出るまでに、宮島口へと渡って行く。つまり、島で働く大方の人々は、日々連絡船で、本州側(広島や岩国方面)から、通勤しているのである。島に居住するのは、その多くが老人であり、従って、若者が夜出入りするような施設は、何もない。

 宮島には、神の島として、昔から伝わる様々のタブーがある。例えば死者を埋葬することができないから、墓地はなく、彼岸や盆にも、人々は、連絡船で宮島口にわたり、そこにある先祖代々の墓に参るという慣習を守って来た。島内で出産することもできないから、お産の際は、瀬戸を渡る他ない。島と本土の最短距離はたったの300メートルであるが、瀬戸に架橋はされていないから、救急車を呼ぶことはできず、天候が荒れて連絡船が欠航でもしたならば、如何に大変な事態となるかは、想像するまでもない。そもそも医院とてないから、日々の医者通いも連絡船なのである。夜開いている飲食店は一軒もなく、コンビニの1つすらない。これでは、若い人が住み着くのは、なかなか難しい。


 この宮島に、もう10年程も前のことになろうか、私の中学・高校の同期生であるN君夫妻が住み付いた。N君自身は江戸のど真ん中の生まれ、名門番町小学校を卒業したという生粋の東京っ子で、大手の商事会社勤務を経た後、父上から会社の経営を引き継ぎ、パリ郊外でゴルフ場の経営をしたこともあるという国際派であるが、夫人が宮島の旧家の一人娘で、御両親を看取られた後、そのまま、家屋敷を引き継がれたというわけである。奥方もまた、小唄・長生派の師範として長く東京で活躍されて来た方であるから、東京での全てを断ち切って宮島に引っ込むというのは、もとより、宮島に対する並々ならぬ愛着があってのことである。このN君夫妻が、島で、戦いを始めることとなった。


 奈良の春日大社と並び、宮島は、昔から、神社と鹿のコンビネーションで有名である。宮島の宣伝ポスターなどでは、大鳥居と並び、鹿と紅葉(これが、銘菓「もみじ饅頭」の謂れである)が描かれているのが定番であるし、今でも土産物として売られている商品の中に、鹿に関連したグッズは、決して少なくない。宮島の鹿は、戦争が終わる前は街中に溢れていて、参道の人混みを、人と同じような顔をして歩いていた。幼少の私は、突然自分より背の高い雄鹿が横をすり抜けて行くのに、思わず泣きそうになった記憶がある。

 戦後の一時期、街中はおろか山中においても、鹿は一切見ることができなくなった。食糧難で、島民が皆食べてしまったのだ、とか、或いはまた、岩国基地の米軍が、レジャーとして狩猟の対象としたのであるとか、もっともらしい話はいろいろ聞いたが、本当の事情はよく分からない。いずれにしてもしかし、戦後の復興が進むに連れて、鹿はまた、徐々にその姿を現わすようになった。初めは、山の中で1頭2頭と。また街中では、当初、檻の中に数頭が飼われていたような記憶があるが、やがて、戦前と同じように、街中を闊歩し観光客とも交歓するようになった。道端には「鹿の餌」を売る業者が立ち、親にねだって買ってもらった子供が、一斉に寄って来る鹿共に囲まれてべそをかくという、世代を変えて繰り返す光景もまた見られたのであった。


 ところが、何年か前に、この様相が一変した。街中で見かける鹿の数が、激減したのである。今度は、その理由ははっきりしていて、要するに、住民が街中の鹿の排斥を始めたのである。公的には、平成10年(1998年)に旧宮島町が「宮島町シカ対策協議会」を設立して、鹿を野生に復帰させるという方針を決定したことに始まるようであるが、平成20年(2008年)に、宮島町合併後の廿日市市は、「宮島地域シカ保護管理ガイドライン」なるものを定め、鹿を野生に戻すために、餌やりを禁止すると共に、栄養状態の悪い鹿を保護・手当てした後に山に帰すなどの管理を実施しているという。その結果、2012年8月までに、島内の市街地では、鹿が半減した(中国新聞2012年8月30日記事)。

 島に住む人々にとって、もともと、鹿はある意味厄介な存在でもあった。つまりそれは、糞害であり、庭木の被害であり、あるいは、土産物屋の店頭に並べられた商品等に対する被害(鹿は、紙を食べる)であって、およそ鹿と人間が共住すれば、自ずから生じるトラブルである。従って、それは今になって始まった問題ではなく、昔からあったはずのものなのであるが、島民はこれまでは、これを、例えば、糞は掃除するか我慢する、樹木の幹を金網で囲う、門口に鹿除けの扉(鹿戸)を付ける、等々して、鹿との共存を図って来た。鹿は、確かにある意味迷惑な存在であったとしても、何といっても、人を島に呼ぶ観光の目玉の1つでもあったからである。ところがここに来て、島民達がキレた。「鹿さんの餌」を売る立ち売り業者の姿は消え、禁止されていることを知らずに餌をやっていた修学旅行の生徒達が、老人に「お前ら外から来た者が、無責任なことをするな」ときつく叱られたという。のみならず、住民の中には、鹿を見ると、箒で叩き追い遣る者すらいる。深更に、宮島の裏の浜辺から、密かに動物の屍らしきものをいくつも船に積み込む者を見た、などという、戦慄させられる噂なども聞こえて来る(N夫妻談)。

 しかし、島民は、何故ここに来て突然キレたのか? そこには、長年の鬱積ということもさることながら、環境生物学者の「野生の動物は、自然に帰しましょう」という助言による、一種の環境イデオロギーが働いたようである。つまり、鹿は野生の動物であるから、街中に住むよりは山に住む方が、本来幸せなのだ、という発想である。

 そこでまず意外に思われるのは、鹿は厳島神社の「神鹿」であり、神社が管理しているのではないのか(奈良の春日大社においては、まさにそうである)、そしてそうした「神の使い」であるからこそ、住民も、それとの共存を大事にして来たのではないか、ということであろう。しかし、今時の理屈はそうではなく、鹿は神社の所有物ではないので、従って無主物であり、ということはつまり本来野生動物なのだ、という話のようである。現に、厳島神社は、今回の鹿排斥運動は全く神社とは関わりのないことであって、従って、介入する積りもまたない、というスタンスでいるようだ。

 「おかしいではないか」とN君は憤る。あれだけ島の観光、そして神社の参拝客の誘引に貢献して来たものを、今になって「あっしには関わりのねえことで」という恥知らずはさておいても、所有者がいないから野生であって、従って山に帰すべきだという単細胞的な発想自体が、余りにもお粗末である、というのである。宮島の鹿は、野生ではない。それは長年の住民との交流により、そのような環境・文化を前提としてようやく生存して来た里鹿ないし街鹿なのであって、人間からの給餌を絶たれれば、生きて行く術を知らない。そもそも、宮島の自然には、野生の鹿が自然に繁殖して行けるだけの餌がない。宮島の原生林は天然記念物として開発が規制されているが、その植生は、多数の鹿を養えるようなものではない。このような環境に合わせて、宮島の鹿は、奈良の鹿よりは、体躯が一回り小型な、独特の種類なのであり、そのことによって、ようやく種族の維持を保って来たのである……。N君が鹿について話し始めると、止まるところを知らない。

 N君は、「宮島の鹿をいつくしむ会」を結成し、その事務局長になった。廿日市市の行政当局と掛け合い、広島の弁護士に相談し、住民との話し合いを繰り返した。住民からは苦々しく思われ、嫌がらせをされながら、夜陰に乗じて(?)毎晩鹿に(ついでに野良猫にも)餌をやりに行く。鹿は(そして野良猫も)、N君夫妻の足音(そして車の音も)を知っていて、時間になると、商店街の一角にあるN家門前は、鹿猫市を成すという。

 島民による鹿追放の動機には、「鹿の餌」の販売業者に島外者がいて、彼らが露天商のような形で宮島の鹿をネタに暴利をむさぼったことへの感情的な反発もあったようであるが、この「宮島の鹿騒動」については、マスコミで報道されたこともあって、現在でも、地域を越えたレベルでなお、意見の対立が続いている。私の場合、宮島の鹿に対する幼少時からの愛着は別としても、この騒動の嫌な所は、それまで違和感を持ちながらも共存して来たものに対して、識者(学者)がその追放を正当化する「正義の論理」を提供し、それを基に行政が(それを仮に迫害とまでは言わずとも)一斉排除に乗り出す一方で、宗教の方は知らぬ顔の半兵衛を決め込むという構図である。そこには、少くとも何がしかの既視感(デジャヴュ)がある。


 宮島の鹿は、今、桟橋広場や参道に、ちらりほらりと姿を見ることができる。しかし、皆痩せこけ、毛の色艶は決して良くない。N君の話によれば、例えば島を訪れた私などが彼らに何らかの栄養補給を試みようとするならば、最も手っ取り早いのは、大豆や大麦などをポケットに忍ばせることであるという。もとより、野菜とりわけキャベツは大好物だが、なぜか、レタスは苦手だそうである。

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