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書斎の窓

巻頭のことば

世界システムと日本

第3回 国家の役割と重要性

東京大学東洋文化研究所教授 田中明彦〔Tanaka Akihiko〕

 20年近く前に書いた本で、筆者は、世界システムにおける国家の役割は相対的に低下してきたと論じた。国際組織、企業、NGO、都市、宗教組織、テロ組織や個人など国家でない様々な主体が登場し、国家も含めて多重かつ重層的な複雑な関係が世界システムの中で展開するようになった。世界システムは、国家が圧倒的な影響力をもって相互作用していた「近代」のシステムから、かつての「中世」に相似したシステムになりつつあるのではないかと論じた(『新しい「中世」』、日本経済新聞社、1996)。

 この傾向は、現在、さらに強まっていると思う。大企業の行う直接投資や多国籍生産によって世界経済は大きく影響を受け、NGOや国際組織によって世界的課題が設定される。テロ組織や犯罪組織の与える負の影響も世界各地で顕在化している。個人レベルのサイバー攻撃によって国家機関のサイトが麻痺してしまう。国家の相対的影響力は低下しつづけている。

 果たして国家は要らなくなってしまうのか。かつてジャン=ジャック・ルソーは、人間の不平等や社会の堕落は国家が誕生したことによって生じたと論じた。無政府主義がある程度の影響力をもった時代もあった。また、市場原理主義者のなかには市場さえ十分機能すれば国家は不要だなどという考えがみられた。

 しかし、このような国家不要論は、21世紀の現在それほど強くない。逆に、国家の役割を見直すべきだとの考えが強まっている。スティーブン・ピンカーの近著(邦訳『暴力の人類史』青土社、2015)は、戦争から殺人までありとあらゆる暴力の変遷を人類史のなかで検討した大著だが、同書によると、暴力を低下させるうえで国家の果たした役割は大きかった。考古学や人類学が生み出したデータによれば、国家の存在する社会のほうが、国家の存在しない社会にくらべてはるかに暴力が制限されているという。ホッブズとルソーでは自然状態に対する見方が正反対であったが、ピンカーによれば、実証的にはホッブズが正しいということになる。前回議論した「脆弱国」の問題は、まさに国家崩壊によって、暴力が社会を覆うようになる典型だということになる。

 暴力の制限に加えて、経済発展における国家の役割の重要性の指摘も増えている。ダロン・アセモグルとジェイムズ・A・ロビンソンの近著 (邦訳『国家はなぜ衰退するのか』早川書房、2013)は、経済発展が実現するか否かは、包摂的政治制度(inclusive political institutions)が実現できるかにかかっていると論じている。これに対して収奪的政治制度のもとでは、経済発展はおこらない。つまり、強くしかも社会の多くの主体を包摂するような国家ができるかどうかが経済発展の鍵だというのである。アセモグルとロビンソンは、あえて「民主主義」ではなく「包摂的政治制度」という言葉を使っている。彼らが「包摂的政治制度」の最初の典型例としてあげているのが名誉革命後のイギリスであり、これを普通選挙が行われる現代の自由主義的民主制と同一視することができないからであろう。

 つまり、アセモグルとロビンソンの包摂的政治制度は自由主義的民主制と同じではない。それでは、どこが違うのか。筆者の読んだ限りでは、彼らの著書からはあまりはっきりとした回答は提示されていない。さらなる概念整理、歴史的実証という観点からは、最近のフランシス・フクヤマの業績が参考になる。彼は、国家、法の支配、責任ある(accountable)政府の3つの要素が政治発展にとって重要な構成要素であると論じ、フランス革命までの歴史的変遷を一昨年邦訳のでた著書で論じた(『政治の起源』講談社、2013)。これに続く最近著(Political Order and Political Decay, 2014)で、フクヤマは、19世紀以降の変遷を取り上げている。ここでは、国家を構成する重要な要素である自立的な官僚制の成立と発展と、責任ある政府をなりたたせる普通選挙のもとでの民主制の生成発展の過程を詳細に分析している。

 いずれにしても、国家の重要性は否定しがたい。これまでの概念や理論の再検討も含め、歴史的実証的な研究がますます求められている。21世紀の世界システムにおいて相対的影響力が低下するなか、いかなる国家が可能であり望ましいか、巨大な問題だといわざるをえない。

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