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コラム

丹宗暁信先生を偲ぶ――『論争独占禁止法』のことなど

放送大学理事・副学長 横浜国立大学名誉教授 來生 新〔Kisugi Shin〕

 2014年1月31日、丹宗暁信先生がご逝去された。先生の指導を受け、先生の後を追いながら経済法研究の道を歩んできた者として、先生の行跡と業績を振り返り、先生との交流の記憶のいくつかを披露して、先生を偲ぶこととしたい。

 丹宗先生は1927年にお生まれになり、東京大学で法哲学の尾高朝雄先生の指導を受けられた。尾高先生の指導方針が、法哲学者は何か1つ実定法を研究対象にすべきということだったためと、丹宗先生からはよく伺ったのだが、先生は行政法の田中二郎先生の指導も受けられ、経済法研究者として九州大学、北海道大学、立命館大学、千葉大学、大東文化大学で教鞭をとられた。千葉大学を退職後 は弁護士としても活動された。先生の学会デビュー論文「経済法学の独自性」に代表されるように、時代を先駆ける多くの論文と著作を著され、赴任された各大学で、現在の経済法学会を支える数多くの弟子を養成された。

 次世代研究者の育成における生産性の高さは、丹宗先生の教師として、あるいは研究者としての魅力の結果であったと言ってよい。法哲学的思考を基礎に、新たな独自性を持った学問としての経済法の進むべき方向を精力的に語る丹宗先生の情熱に、先生が赴任された各大学で、多くの若い学生が魅かれ、自らも研究者となる道を選んだことは不思議ではない。それは、政府主導による高度経済成長から市場中心の安定成長経済に移行するプロセスの日本において、先生の議論が国家と市場の関係のある側面を鋭くとらえ、多くの若い学生に、経済法という学問の枠組みの中で自らもそれを明らかにしたいと思わせる力を持ったためだったと、今になって改めて感じている。

 先生の還暦祝賀論文集の出版に代えて、先生の北海道大学時代の弟子が中心になり『論争独占禁止法』(風行社 1994年)を刊行できた。先生を研究代表者とする科学研究費「日米構造摩擦と独占禁止法体系の再構築」を獲得し、有力な研究者のいる各地の大学を訪問して議論を交わしながら、その成果を1冊の本にまとめた思い出が鮮烈である。つい昨日のように思うが、出版後すでに20年を超え、討論に参加いただいた今村、実方、本間の3先生は、丹宗先生に先立って鬼籍に入られている。時はとどまらず過ぎていく。

 

1994年『論争独占禁止法』出版記念で,札幌のホテルにて撮影
丹宗先生を中央に,左から和田,畠山,來生,稗貫,向田

 個人的な思い出になるが、先生がまだお元気であった2009年6月12日から17日にかけて、昆明理工大学の斉虹麗教授の招待を受けて、中国の南昌市で開かれた中国経済法学会への参加をお誘いし、先生の鞄持ちを務めた。先生が記念のスピーチをされ、その後、昆明市で何日かを共に過ごした。丹宗理論が中国の経済法研究者に非常に高く評価されおり、先生は若い女性研究者に大人気で、学会会場で一緒に記念写真を撮ってほしいという希望が引きも切らなかったことを、昆明でも帰国後も、大変にお喜びになって話しておられた。その時の先生の嬉しそうな笑顔が忘れられない。

 私はこの10年あまりは、大学の管理業務のウェイトが大きくなり、経済法の学会にも参加できない状態で、2009年の中国旅行のあと、先生と年賀状のやり取りを確保していたのが、この2年ほどは先生からの年賀状が途絶えていた。なかなか連絡が取れず心配をしていた矢先の訃報であった。もう少しご様子を積極的にうかがうこともできたはずだと、慙愧の念に堪えない。しかし、もはや後悔は先に立たず、親孝行をしたいときには親はいないという言葉の重みを改めて噛みしめている。

 この小文を閉じるにあたり、先生に献呈した『論争独占禁止法』の「おわりに」に書いた、シェイクスピアの「テンペスト」4幕1場、プロスペローの台詞(安西徹雄訳)を改めて引いて、生涯夢見る人であった先生に捧げ、ご冥福を祈りたい。

 「われらが祝宴も今は終わった。これを演じた役者どもは、先程も語ったとおりみな妖精。それも空中へ、希薄な空気の中へと溶けてしまった。この幻影が実体をもたぬ作り物であったと同様、雲をいただく高楼も、壮麗な宮殿も、厳粛なる寺院も、巨大なる地球そのものも、そう、そして地球に住むもの一切も溶け、消え失せたかりそめの芝居さながら、後には雲1つ残りはせぬ。われわれは夢と同じくはかない身、そしてわれらが小さき生は眠りによって幕を閉じる。」

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