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書斎の窓

連載

脳の中の不思議の島――趣味的研究人生

第4回 身体が選択を導く

名古屋大学大学院環境学研究科教授 大平英樹〔Ohira Hideki〕

秋の日の/ヴィオロンの/ためいきの/

身にしみて/ひたぶるに/うら悲し (上田敏訳)

  

 第2次世界大戦が始まって5年。1944年6月5日夜、イギリスBBC放送はヴェルレーヌの詩を朗読した。ヨーロッパをナチス・ドイツの支配から解放せんとする「ノルマンディ上陸作戦」発動の暗号である。このとき、イギリスの空軍基地では爆撃機の大群がまさに発進せんとしていた。米英連合軍の上陸部隊は輸送船への乗り組みを完了し待機していた。そして対するドイツ軍将兵は、明日が今日と同じであることを願いつつ、のんびりと夜を過ごしていた。

 米英連合軍の侵攻を迎え撃つドイツ軍の首脳部には、深刻な戦略の不一致が存在した。アフリカでの戦いの経験から連合軍の物量の威力を知るロンメル元帥は、海岸線での敵撃滅が唯一の勝機であると主張した。ドイツ陸軍の重鎮フォン・ルントシュテット元帥は、いったん敵を内陸に誘引した後に、強力な装甲師団を投入し決戦を挑むべきだと論じた。ドイツ軍首脳部は、いずれの戦略を採用するかを決断できず、両者を折衷するような計画が採られることになった。結局は、この中途半端な選択のために、勝利は失われたのであった。一国の運命を左右するような意思決定を迫られる者には、想像もできない程の重圧がのしかかる。

 筆者はかつて、シミュレーション・ゲームのデザイナーであった。大学院生の頃だから25年も前のことである。作品のひとつに、「ノルマンディ上陸作戦」を題材とした『D−day』(翔企画)があるが、このゲームは2002年に国際通信社より再販された。インターネット上で、筆者が創ったゲームを今でもプレイしている人を見つけることがある。クリエイターとしては嬉しい限りである。シミュレーション・ゲームの面白さは、史実においてあり得たであろうジレンマの中での意思決定を再体験することにある。多くのゲームでは、個々の戦闘の結果などの事象は確率的に決定されるので、プレイヤーは不確実性の中で、予測される成果とリスクを考慮しつつ、最適な選択肢を探ることになる。

 

図1 ソマティック・マーカー仮説のメカニズム(背景:ノルマンディ上陸作戦)
   A:扁桃体,B:体性感覚皮質,C:前部帯状皮質,D:島,E:腹内側前頭前皮質

 そのような場面で論理的にひとつずつの選択肢を検討していたのでは、負荷が高すぎたり、あるいは時間がかかりすぎたりすることで、適切な意思決定ができない場合がある。神経科学者のアントニオ・ダマシオは、このような場合、感情が意思決定に重要な影響を及ぼすと主張した。彼によれば、感情の機能とは、過去の経験に基づいて個々の選択肢に価値を付け、それにより瞬時に不適な選択肢を削除して意思決定空間を狭めることだという。その際に、感情に伴って生じる身体の反応が脳に伝えられ、意思決定に影響する。これが有名なソマティック・マーカー(somatic marker:身体信号)仮説である(Damasio, 1994)。確かに、私たちが重要でリスクを伴う選択をしようとする時、心臓の鼓動が高まり、手が震え、冷や汗をかく。そうした身体反応が選択を左右することは日常の実感に合致するように思える。図1は、この仮説のメカニズムを表している。刺激や状況は扁桃体により検出され身体反応が惹起される。この身体反応は求心的経路により脳に伝えられ、最終的に体性感覚皮質、前部帯状皮質、そして本稿の主題である島に伝えられ表象される。特に島の前部は、価値を表象する腹内側前頭前皮質に密な神経投射を有し、それにより意思決定にバイアスをかける。つまりこの仮説は、本稿の第1回で取り上げた身体に基づく感情の理論を、意思決定に拡張したものである。

 ソマティック・マーカー仮説は、アイオワ・ギャンブリング課題と呼ばれる方法を用いて検討されてきた。この課題では、参加者に4つのカードの山が提示される。カードの裏には利得と損失の金額が記載してあり、参加者は、好きな山からカードを引くことを繰り返す。4つのうち2つは、「よい山」であり、1回に得られる利得の金額は小さいが、損失の確率も低く、長期的には得をするようになっている。残りの2つは「悪い山」であり、1回の利得金額は大きいが、それより大きな損失のカードも含まれており、引き続けると損をしてしまう。もちろん参加者はこのルールを知らず、試行を繰り返すことでルールを発見し、利益を最大化しようとする。大きな損失を経験すると感情が生じ、皮膚伝導反応などの交感神経系反応が惹起する。この身体反応は、少数回の損失経験であっても、リスクを知らせるソマティック・マーカーとして、選択肢のリスクを意識的に理解するより先に作用するようになり、「悪い山」の選択を妨げることで意思決定を有利に導く。最近本邦において、この問題について印象的な症例が報告された。交通事故で頭部に損傷を受け、脊髄から橋、視床を経て体性感覚皮質や島に向かう神経が断たれてしまった患者がこの課題を行うと、短期的な利益をもたらす「悪い山」の選択に固執し、結局は損をしてしまう(Yasuno et al, 2014)。この患者は、ソマティック・マーカーを利用できないためにリスクを考慮した意思決定が困難になっているのだと考えられる。

 ダマシオは、身体信号が脳において単にモニタリングされるだけでなく、身体状態を表現するモデルが脳内に形成されていると考え、このモデルを「あたかも身体ループ(as if body loop)」と呼んだ。本稿前回で述べたように、最近の研究では、こうした身体状態のモデルが島に実装されていることが詳細に論じられている。神経画像研究が発達していない時期からこの可能性を指摘したのは、ダマシオの慧眼であったと言えよう。ダマシオが「あたかも身体ループ」を想定したのは、交感神経系反応が生じない自律神経障害患者でもアイオワ・ギャンブリング課題の成績が健常者と変わらないという反証や、交感神経系の反応はゆっくり生起するので1試行ごとの意思決定に間に合わない、という批判に対応するためであった。つまり、実際の身体信号を待たずとも、生じるであろう身体反応をモデルによって速やかに予測し、意思決定を導く機能が実現されているというのである。

 筆者は、「あたかも身体ループ」には、意思決定の自己主体感をもたらす機能もあるかもしれないと考えている(大平、2014)。前回述べたように、ある行為をしたのは自分だという自己主体感は、モデルによって計算される運動に伴うであろう身体感覚の予測と、運動により生じた実際の身体感覚との一致により成立する。これと同様に、ある選択肢を選び取ろうとする際に「あたかも身体ループ」によって、どんな身体反応が生じるかが予測される。そして意思決定がなされた後に生じる実際の身体反応の信号が脳に伝達され、モデルにおける予測と照合される。両者が一定の範囲で一致する場合に、その決定をしたのはまさに自分であるという意思決定の自己主体感が成立するのかもしれない。

 なぜこうした、身体状態のモデルを用いた意思決定の自己主体感メカニズムが必要であるかというと、おそらく意思決定には身体的な運動が伴わない場合もあるからではないだろうか。カップに手を延ばす、ボールをバットで打つ、キーを押して音を鳴らす、といった行為であれば必ず身体的運動が伴うので、運動と感覚のモデルにより、その行為をしたのは自分だという自己主体感が形成できる。しかし意思決定は、心の中だけで選択をし、実際に行動に移すのは後になってから、という場合もありうる。そのような場合、その選択が、他者や環境中の刺激に影響されて外的に決められたものであるのか、自分で決めたのかを判断することは重要であろう。その場合、運動による身体感覚が使えない以上、意思決定に伴って生じる内的な身体反応の感覚を手掛かりにするしかないのであろう。この考えは、現在のところ全くの推測に過ぎない。しかし、それを実験により検証していくことは可能である。

 後に心理学者となってから、シミュレーション・ゲームのデザインと、心理学の研究は似ており、頭の使い方は同じであると思うようになった。人間の判断や行動という複雑な現象を整理し、背後にある原理を考える。そして、個々の事象を規定するパラメータを探る。こうして仮説やモデルを組み上げ、それをデータにより実証しようと努力する。どちらも、大きな愉悦をもたらしてくれる知的営みである。

【引用文献】

Damasio, A. R. 1994. Descartes’ error: emotion, reason and the human brain. New York: Grosset Putnam. (田中三彦訳 2000.アントニオ・ダマシオ『生存する脳――心と脳と身体の神秘』 講談社)

大平英樹 2014. 島の機能と自己感 Brain and Nerve, 66,417-427.

Yasuno, F., Matsuoka, K., Kitamura, S., Kiuchi, K., Kosaka, J., Okada, K., Tanaka, S., Shinkai, T., Taoka, T., & Kishimoto, T. 2014. Decision-making deficit of a patient with axonal damage after traumatic brain injury. Brain and Cognition, 84, 63-68.

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