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佐々木卓也[著]『アイゼンハワー政権の封じ込め政策』<2008年2月刊>(評者:大阪大学大学院法学研究科 坂元一哉教授)=『書斎の窓』2008年9月号に掲載= 更新日:2008年11月19日
 冷戦の終焉から20年近くが経過した。米ソ両超大国が巨大な軍事力を楯に冷たく対立したあの時代は,時の経過につれてますます,冷戦史家ジョン・ルイス・ギャディスがいう「長い平和(ロング・ピース)」の時代だったように思えてくる。
もちろん「平和」といっても米ソの全面戦争がなかったという意味であり,代理戦争や内戦で多くの犠牲者が出たのは言うまでもない。それに米ソ両国は,世界中で国家体制のあり方をめぐって熾烈な競争を繰り広げ,国際政治をときに激しく緊張させた。一歩間違えば人類破滅の核戦争を招く事態に陥ったこともある。しかしそれでも,両国が直接に戦うことはなく,冷戦下の「平和」は約40年間続いた後,ソ連邦の自壊という劇的なかたちで幕を閉じた。
いったい何がその「長い平和」を可能にしたのか。さまざまな要因があるが,本書はその中で,1950年代後半の米国冷戦政策の賢明さに光を当てる。著者は佐々木卓也立教大学教授。日本における冷戦史研究をリードする研究者である。
佐々木氏によれば米国の冷戦政策(対ソ封じ込め政策)はその歴史の中で3度,ソ連の増大する脅威に対応する必要に迫られた。最初はソ連の原爆実験,朝鮮戦争勃発,中国軍の朝鮮戦争介入があった1949年末から1950年末の時期。2度目は,ソ連が米国に先んじて大陸間弾道弾と人工衛星(スプートニク)を打ち上げるだけでなく,順調な経済成長で世界を印象づけた1950年代後半。そして3度目はオイルショックによる原油価格上昇で資力を得たソ連が,第3世界に積極的な軍事進出を行いアフガン侵攻(1979年)に及んだ1970年代半ば以降の時期である。
佐々木氏はこの中で米国にとって最も対応が難しかったのは2つ目の時期だと主張する。なぜならこの時期のソ連は軍事的な脅威だけでなく,共産主義体制の魅力の増大という,政治的,経済的な脅威をも米国に突きつけたからである。世界はソ連の科学的な成功と経済発展を,米国における経済成長の鈍化,そして人種差別問題と対置して体制の優劣を比較した。毛沢東の有名な演説「東風(社会主義陣営)は西風(自由主義陣営)を圧する」はそうした中でのソ連と社会主義陣営の自信を如実に表すもので,その反対に米国内では危機感が高まった。
米国内の危機感は,軍事力の一大増強を求める野党民主党の動きによく表れている。民主党は共和党アイゼンハワー政権がソ連にミサイル開発でリードを許しただけでなく,その脅威にきちんと対応していないと批判して論争を巻き起こした(「ミサイルギャップ」論争)。率先して政権を批判するケネディ上院議員は,アイゼンハワー政権が「敵国の能力を大幅かつ恒常的に過小評価している」点で,ナチスドイツの脅威にうまく対応できなかった戦前のイギリス政府に似ているとまで述べた。
だがアイゼンハワー政権は,ソ連の脅威と国内の軍事力増強圧力に直面しても,決して「軍事的な封じ込めに傾斜することなく,経済,文化,広報など広範な手段をとりいれた政策」で対応する。佐々木氏がそのことを高く評価するのは,アイゼンハワー大統領の判断  軍事的な封じ込めへの傾斜は必要でないし,危険であるという判断が正しいだけでなく,「広範な手段」の一部として推進した東西交流が,西側世界の価値観をソ連内に浸透させ,やがてソ連の変化を生み出す重要な媒介になったと考えるからである。
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本書の構成は全六章からなり,まず第1章では,アイゼンハワー政権の冷戦政策の全体像が素描される。1953年,大統領に就任したアイゼンハワーはその保守的な財政観と,米国を「兵営国家」にしてはならないとの信念から,朝鮮戦争勃発後の軍事費の急増に強い懸念を懐き,米国の冷戦政策が長期的に「支払い能力に裏付けられた」ものであり続けるよう,軍事費の伸びを抑える安全保障戦略を追い求めた。その結果登場したのが核の巨大な報復能力(が生み出す抑止力)に依存する「大量報復戦略」であった。この戦略を背景に陸軍兵力の削減に努めたアイゼンハワー政権は,政権期間中,軍事予算を300億ドル台後半から400億ドル程度に抑制することができた。
第2章は,1950年代の半ばまでに冷戦が軍事的脅威よりも非軍事的脅威を重視すべきものに変わったと判断したアイゼンハワー政権の対応を考察する。同政権はソ連の「平和共存」路線と経済成長がアジア・アフリカ諸国に与える影響を懸念して,当初消極的だった対外援助に積極的になった。また同政権は,非軍事的手段によるソ連圏の段階的変革をねらい,ソ連との人的・文化的交流やソ連に対する広報を拡大する「東西交流」政策を冷戦政策の主要な手段と位置づけるようになる。
続く第3章と第4章は,スプートニク打ち上げが米国に与えたショックとアイゼンハワー政権の対応を論じている。スプートニクの打ち上げ(1957年10月)は民主党のある上院議員が「核の真珠湾」と呼ぶほどの衝撃を米国民に与えた。いつか核兵器を積んだミサイルが米国に打ち込まれる。そういう悪夢が現実味を帯びたように思われたからである。打ち上げ直後に政権に提出されたゲイサー報告書(「核時代における抑止と生き残り」)は,ソ連の軍事力の「劇的な進展」と米国核戦力の脆弱性に強い警鐘をならし,核攻撃力の強化と核シェルター建設などのために国防予算の大幅増額(五年間にわたって年間90億ドル程度)が必要と主張する。このゲイサー報告書はNSC(国家安全保障会議)の依頼をうけて書かれたものだが,執筆者に前民主党政権の高官が多く含まれたこともあって,政権批判の色彩を持つ文書になった。年末この報告書がマスコミにリークされると,「ミサイルギャップ」論争はさらに激しくなる。
しかし,アイゼンハワーは冷静な対応をとり続けた。大量報復戦略の論理に合致するミサイル攻撃力の増強には応じたが,報告書が主張するようなシェルター建設や国防費の大増額は拒否する。その対応は一つには,秘密裏に飛ばしていたU2偵察機からの情報でソ連の実際のICBM能力が報告書の予測をはるかに下回ることを知っていたことによる。またソ連が東欧や中国との間で摩擦をかかえていることも判断に影響した。
だが,冷静な対応を支えた最も大きな要因は,大統領が冷戦の本質をよく理解していたことである。大頭領は冷戦が単なる軍事的な闘争ではなく,2つの生活様式の争いであることをしっかり把握していた。そういう争いであれば,たとえば核シェルターの建設によって自由でリベラルなアメリアの生活様式を壊すような自殺行為は厳に慎まなければならない。また,この争いは長期的なものになるだろうから,危機の年(たとえば5年後)を定めて,それに向かって全力で軍事力を増強させる,といったやり方は避けるべきである。
そうした冷戦理解から見たとき,アイゼンハワー政権がスプートニク打ち上げの翌年,東西交流で突破口を開いたこと(米ソ交流協定交渉開始)の意味は大きい。国務省の文書が確認するように,この東西交流は「ある程度の自由と対外世界との接触の経験」が「究極的にはソヴィエト体制に根本的変革をもたらす抵抗しがたい圧力」になる,ことをねらったものだった。アイゼンハワー政権はソ連の軍事的均衡を確保しつつ,非軍事的な手段によって長期的な体制間競争を戦おうとしていたのである。
第5章では,アイゼンハワー政権が進めた東西交流の具体例が紹介されている。1959年の夏にはモスクワとニューヨークでそれぞれ相手国の国家博覧会が開かれた。また,秋にはソ連の指導者フルシチョフが米国に2週間滞在している。どちらも好評で米ソの相互理解には大いに資するところがあり,冷戦の変容を世界に印象づけた。ただ,アイゼンハワー政権は東西交流を冷戦政策の成果として米国民に声高に宣伝することはできなかった。ソ連の警戒を招いて計画の縮小につながることを恐れたからである。
アイゼンハワーは自らの冷戦政策に自信を持ち続けたのだが,米国内では「ミサイルギャップ」を批判する声がやむことはなかった。そうした中で1960年5月,U2機の撃墜事件が起こり,予定されていた首脳会談の中止など米ソ関係が暗転する。最終章では,この年の選挙でケネディが大統領に当選した背景には,アイゼンハワーが「アメリカは漂流し,ソ連の挑戦に決然と応えていない」と感じる国民の多くの説得に失敗したことがある,との指摘がなされている。
しかしアイゼンハワー大統領は,最後まで米国が軍事的な封じ込めに傾斜しないよう努力した。退任にあたっては,軍事的な封じ込めが「軍産複合体」の不当な影響力を増大させ,米国の自由や民主的過程を危うくさせると警告した有名な演説を行った。大統領は東西交流の効果に期待をかけ続けた。U2事件で,フルシチョフの挑発的な批判に抑制的に反応したのも,せっかく開き始めた東西交流のドアを閉ざしたくないとの意図があったからと思われる。幸いU2事件にもかかわらず東西交流は続き,ケネディ新大統領もそれを拡大する姿勢を見せた。
佐々木氏はアイゼンハワーの冷戦政策を高く評価する一方で,その限界を指摘することも忘れない。大統領がミサイル・ギャップが存在しないと考えながらも,ミサイル戦力の強化には踏み切ったこと,体制間競争に深く関係する人種問題・公民権政策で消極的な態度しか示さなかったこと,また第3世界政策でCIAの非合法活動を活用したことなどは負の遺産である。ミサイルギャップ論争で結局国民を説得できなかったことも,民主主義のリーダーとしてのアイゼンハワーの限界を示すものであった。
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本書は,膨大な研究文献と新しく公開された一次資料を駆使して,アイゼンハワー政権の冷戦政策の基本的特徴を解明する労作である。これまであまり注目されてこなかった東西交流に注目して,封じ込め政策におけるその位置づけを明らかにしたところ,ゲイサー報告書の形成過程と内容について詳細に分析したところなど,1950年代の米国外交史研究の水準を引き上げる研究書に仕上がっている。
研究書としての価値に何の疑問もないが,一般向けにということで少し欲を言うとすれば,アイゼンハワー政権の冷戦政策と後継ケネディ政権の冷戦政策を比較する視点を最後に少し入れてもよかったのではないだろうか。というのも1950年代後半のソ連の脅威の増大は,区切りで言えばキューバ危機(1962年)まで続いたと見ることができ,米国の対応は2代の政権にまたがっていたと考えられるからである。ケネディ政権の対応はアイゼンハワー政権の対応の意義をよりよく理解するのに役立つ視点を提供するはずである。たとえば,政権についたケネディは「ミサイルギャップ」が実は存在しないことを知るが,それでも軍事力全般の拡大を行った。そのことは米ソ関係にどのような影響を与えたのだろうか,といった視点である。
(さかもと・かずや=大阪大学大学院法学研究科教授)
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