書評 「危機の年」の冷戦と同盟 | 有斐閣
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青野利彦[著]『「危機の年」の冷戦と同盟―ベルリン,キューバ,デタント1961~63年』<2012年11月刊>(評者:政策研究大学院大学 岩間陽子教授)=『書斎の窓』2013年4月号に掲載= 更新日:2013年4月5日

 

キューバ危機からデタントへ

 国際関係史の講義をしていて、1963年まで来ると、なんだか間延びした妙な感じになる。  キューバ危機で米ソ超大国は、核戦争の瀬戸際まで行きました。ぎりぎりで踏みとどまった両大国は、同じような危機を繰り返すことのないように、この後互いとのコミュニケーションを改善するよう心掛け、次第にデタントの時代へと移って行きました。1963年には米ソ間にホットラインが設置され、部分的核実験条約(Partial Test Ban Treaty: PTBT)も締結されました。この後がどうもうまく話しが流れないのだ。もちろんケネディ暗殺のせいもあるだろうが、ジョンソン大統領とて、軍縮・軍備管理に熱意を持っていなかったわけではない。しかし、物事が動き出すのは19678年まで待たねばならない。60年代中盤の5年ほどが、どうも宙に浮いたような停滞感があり、すっきりしない。そのもやもやの中心にあるものが、青野利彦氏の『「危機の年」の冷戦と同盟』を読むと、次第に見えてくる。

 本書は、ケネディ大統領の就任からPTBT締結までの「危機の年(the crisis years)」を扱い、そこで実現される可能性のあった米ソデタントと、実際に実現された「1963年デタント」とのギャップに注目し、もっと広範なものになる可能性のあった交渉が、なぜ実際にはPTBT合意までしか至らなかったのか、その「限界」の理由を探っている。その際の「分析視角」として、著者は三点をあげている。第一に、ベルリン、キューバ危機からPTBTに至るまでの過程を、ドイツ問題をめぐる連続した過程としてとらえることである。第二に、「ドイツ問題」の中身を、ドイツ統一、ベルリン、核不拡散、東西不可侵協定、核実験禁止の五つの争点から構成されていると捉えている。そして第三に、分析にあたり東西それぞれの同盟内政治を重視していることである。西側同盟内の「米英」対「仏独」の対立は従来から知られていたが、これに加えて、カナダ、イタリア、ベルギーなどを「NATO小国」と名付け、これらの小国を含めた同盟内政治と、東側の同盟内政治が米ソ交渉に与えた影響を考察している。

 

「分水嶺の年」

 トラクテンバーグ(Marc Trachtenberg)は、その主著 A Constructed PeacePrinceton University Press, 1999)においてこの危機の年を扱い、この間の最大の問題は西ドイツの核武装であり、PTBT交渉で米ソが西ドイツ非核化について「暗黙の合意」に達した結果、ドイツ問題はほぼ解決し、冷戦は安定的な「平和(peace)」へと移行したという解釈を示した。1963年をトラクテンバーグは「分水嶺の年」と扱い、ここを境に冷戦はその性格を変えたと論じている。この交渉の過程で、英仏の単独核容認とその許容される形態をアメリカは決断した。イギリスは開発をあきらめ、米の核兵器の提供を受け、フランスは独自核開発を容認されるが、西ドイツとの技術協力や西ドイツへの技術供与は許さない。独仏協力につながりかねなかった道をエリゼー条約批准に際してアメリカは封じ、アデナウアー退陣と共に、西ドイツの核武装はなくなった。トラクテンバーグの主張は、言わんとするところは理解できるが、果たしてそこまで言い切れるのか、という思いが拭い去れない。

 青木氏は、「分水嶺」とトラクテンバーグが名づけた1963年の構造を、より精密にとらえようと試みている。就任当初ケネディは、ベルリン危機のような限定紛争・侵略によりよく対処するために、柔軟反応戦略の導入を訴え、同盟諸国に通常兵力の増強を求めた。西側の結束した立場を示すためにも、ベルリン問題に関するソ連との交渉には応じないつもりだった。同時にソ連と一定程度の緊張緩和を求める用意もあり、西ドイツの核武装防止をてこに、核実験禁止と核不拡散の問題で米ソ合意をもくろんでいた。しかし、このどちらも、同盟内政治のためアメリカの思う方向では貫徹できなかった、と青野氏は分析している。

 ヨーロッパ側同盟諸国は、通常兵力増強とその効果について、アメリカの立場には同意しなかった。ソ連との交渉については、イギリスは大賛成だったが、独仏の硬直的な立場が障害となっていた。NATO小国は、通常兵力増強の前提として、ベルリンに関するソ連との交渉の前進を強く求めていた。交渉に積極的な英、消極的な仏独と、「西ベルリンの占領権を防衛するために戦うことはない」という立場のNATO小国との間に立ってケネディ政権は、ソ連との交渉の機会を探りつつ、通常戦力の増強に努める「二銃身戦略」へとシフトしていった。しかし、「五つの問題」のどれについても、すべての同盟国の同意を得ることは難しかった。

 

キューバ危機の同盟内政治

 1961年秋、ニューヨークの国連総会でソ連側と接触を持ったケネディ政権は、ドイツの非核化と東西不可侵協定を中心に、ソ連との交渉に前向きになった。しかし、繰り返し妥協案への同盟内合意に失敗したケネディ政権は、62年夏以降、対ソ交渉の重心を核不拡散問題へと移行させていった。しかし、ここでソ連との間で大きな障害となったのは、NATO内で交渉されていたMLF(多角的核戦力)であった。アデナウアーは西ドイツが将来核保有国となる道を閉ざされることには猛反発しており、他方で米ソとも、西ドイツに単独で核保有をさせたくないという共通の利害は持っていた。そのギリギリの妥協点を探る試みが、この時点ではNATOの多国籍部隊に核を与えるというMLF構想だった。このような手詰まりの状況の中、キューバ危機が起こった。

 キューバ危機に関しては、これまで数多の史料が公開され研究書もあるが、それらと正面から取り組み、ベルリン危機がいかに諸アクターの脳裏で大きな要因であったかを鮮明に浮き彫りにした点は本書の功績である。そもそもフルシチョフがキューバへミサイルを配備しようと思いついたのも、ベルリン危機をより有利に進めることが動機であった。危機が始まり、軍部をはじめ、多くのアクターが軍事力行使不可避と考える中で、ケネディの脳裏に常にあったのは、キューバでの軍事力行使は、ベルリンでの報復措置を招く可能性があり、もしソ連が軍事力でベルリンを制圧すれば、ケネディには核戦争を開始するという「たった一つの選択肢」しかないということだった。そのような状況の中で、「同盟防衛の信頼性(credibility of commitment)」と「危機不拡大の信頼性(credibility of non-escalation)」の二つの「信頼性」をケネディは重視して、封鎖という措置を選んだ。

 危機の最終段階で、トルコのミサイル基地撤去というソ連側の要求が検討された。これは、アメリカ一国にとってであれば、キューバのミサイル撤去の十分妥当な対価であった。しかし、西半球における自国の利益のために「同盟諸国を売り渡した」とNATO諸国が感じれば、「同盟防衛の信頼性」が大きく損なわれる。そのためケネディは、わざわざ実弟ロバート・ケネディ司法長官という秘密ルートを使って、極秘のうちにトルコのミサイル撤去の意思をソ連側に伝えた。このように密接な関連から、青野氏はキューバ危機を「米ソ核戦争の危機であったと同時に、ベルリン危機でもあり、また二つの『信頼性』を維持するための同盟危機でもあった」と評価している。

 キューバ危機の開始直前、ドブルイニン大使は繰り返し、キューバにミサイルは存在しない(実際彼は配備をしらなかった)と言明していた。このためケネディは嘘をつかれたと感じ、ソ連は信頼できないという「ネガティブ」な影響を危機から受けた。このことは、危機終息後、米ソが緊張緩和に動こうとする過程でも影響があった。米ソの相互不信とそれぞれの同盟内政治のために、協調可能な問題領域はどんどん狭まって行き、最後に残ったのは部分的核実験禁止条約のみであった。中国が核保有国になることを恐れたアメリカは、MLFを犠牲にしてでも不拡散に関する米ソ合意を得たいとの思いを持っていたが、この時点では中国の立場を重んずるソ連が応じてこなかった。PTBT締結後も、アメリカは米ソデタントをさらに追求したいと考えていた。しかし結局、同盟国の利害が絡む問題での進展が望めないことから、貿易拡大、民間航空協定、領事館協定、宇宙空間の軍事目的使用の禁止など、米ソ二国で合意可能な問題領域にシフトしていった。

 

60年代中盤の不透明な空気

 ここまで読んでくると、いかに米ソ超大国の政策が、ジュニアパートナーである同盟諸国の立場に影響を受けているかが非常によく分かる。それは確かに、米ソ交渉だけを見ていては見えてこない視点であり、本書の大きな貢献である。さらに、第三世界における中立主義諸国の台頭が、アメリカの政策決定に影響を与えていたという事実が一貫して指摘されている点も、注目される。東西間の交渉は、相手方政府だけではなく、自国および相手方の世論、並びに中立諸国における世論をも考慮しなければいけない時代に入りつつあった。

 もしケネス・ワルツの言うように、米ソが圧倒的な力を持っており、互いの立場だけを考えていればよいのであれば、米ソデタントは1963年時点でもっと進んでいたかもしれない。実際には、米ソは同盟諸国の立場を勘案しなければならず、関係が極度に悪化していた中ソ間においてでさえ、ソ連は中国の立場に相当気兼ねしている。このように見ていくと、60年代中盤の不透明な空気の正体がだんだんと見えてくる。1963年時点で問題であった中国とフランスは、この間に核保有国になり、もはや動かしがたい事実を米ソに突きつけた。西ドイツの核保有をあきらめず、東ドイツ承認につながりそうなあらゆる動きに拒否権を発動していたアデナウアーは政界から去り、西ドイツ政権は保守から大連立を経て、社民党主導政権へと移って行った。ブラント政権になった途端、デタントは再び動き始めた。ドイツ統一、ベルリン、核不拡散、東西不可侵協定、核実験禁止のすべての問題が、ブラント政権期になんらかの帰結を見ている。

 そうすると、トラクテンバーグの1963年分水嶺論は正しかったと言えるのか? おそらく、エリゼー条約へのアメリカの横やりを許し、アデナウアーが退陣した時点で、大なり小なり、進むべき方向は見えていたと言えるだろう。ただ、ゴールが見えていても、そこへ到達する過程とそれにかかる時間が見えていたとは言えない。多くの条件が徐々に整っていく過程の60年代後半の同盟内政治の分析も、著者から続けて期待したい。

 

(いわま・ようこ = 政策研究大学院大学教授)

「危機の年」の冷戦と同盟 -- ベルリン,キューバ,デタント 1961~63年 「危機の年」の冷戦と同盟 -- ベルリン,キューバ,デタント 1961~63年

青野 利彦/著

2012年11月発売
A5判 , 298ページ
定価 4,180円(本体 3,800円)
ISBN 978-4-641-04998-7

ベルリン危機から,人類が核戦争の深淵を覗いたと言われるキューバ危機,そして部分的核実験禁止条約締結に至る「危機の年」の,東西両陣営内部の状況や第三世界各国の動きを活写する。国際的危機における超大国アメリカとその同盟国の関係を分析する意欲作。

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