書評 コミュニケーションの社会学 | 有斐閣
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長谷正人・奥村 隆[編]『コミュニケーションの社会学』<2009年12月刊>(評者:京都大学 作田啓一名誉教授)=『書斎の窓』2010年4月号に掲載= 更新日:2010年4月6日
相互作用の動態的把握
 教科書というと、基本的な項目の生硬な解説の寄せ集めを連想しがちだが、この教科書は退屈しないで面白く読めた。
 コミュニケーションは相互作用の一側面である。それは純粋にパーソナルな文脈の中で生じることもあるし、制度の文脈の中で生じることもある(本書ではマス・メディア、家族、教育など)。社会学以外の学問分野でもコミュニケーションは研究対象となりうる。だが相互作用は社会学の中心的な項目なので、コミュニケーションに最もかかわりがあるのは社会学であろう。だが従来の社会学においては、相互作用はパターン化され社会関係として固定化された形態の中に置かれがちである。これに対し、コミュニケーション論は相互作用の中の揺れ動く感情にまで立ち入り、相互作用の変化する相、動態的側面をとらえようとする。このコミュニケーション論はマクロな層からミクロな層へとパースペクティヴを移動させるのである。ところで対象のミクロな層の極限には、コミュニケーションの当事者にしか味わえないような独特の経験がある。この「単独性」の層にまで下降するのが「文学」的認識であり、それは「科学」的認識につながりうるとされる。本書で多くの質的データが分析されているのはそのためだ。

多様性への目配り
 本書のもう一つの特徴は、コミュニケーションの多様な形態を見渡し、その多様性を通して人間の生の豊かな表情を浮き彫りにしようとする姿勢にある。この視点から見れば、ふつうコミュニケーションのモデルとされている形態が、決して代表的な形態ではなく、一特殊形態にすぎない。そのモデルの一つはいわば合意形成型とでも名づけうるモデルである。このコミュニケーション過程においては、当事者は相手の言い分を十分に「理解」し合い、理性的に「討議」し、根拠のある「合意」に達する。このモデルはハーバーマスにより呈示されたものであり、コミュニケーション論者一般により理念型として承認されている。しかしたとえ公的領域にあっても(私的領域においてはもちろんのこと)、この理念型は実情から余りにもかけ離れているので、理念型としての役目を果たすことができない。まず、この理念型においては当事者が対等であることが前提となっているが、実際のコミュニケーションにおいては形式上は対等であっても何らかの点で力の差がある場合がほとんどである。それに、ほとんどの場合十分な「了解」はなく、「討議」には感情が入りこむ。最後に、「合意」の形成は、確かに公的領域ではコミュニケーションの目的ではあるが、私的領域においては特に「合意」の形成がめざされる訳ではなく、コミュニケーションを楽しむだけのコミュニケーションが、今日いたるところで展開されている。なお、評者の知るところでは、合意形成をめざすフォーマルな会合においてさえ、そこに集まる人々にはコミュニケーションそれ自体を楽しもうとする隠れた動機があることを指摘した社会学者は少なくない。それはこの種の会合の潜在的機能の指摘である。要するに、合意形成モデルに対する本書の批判は、それに囚われると、今日のコミュニケーションの多様性への目配りが制限されてしまう、という側面に向けられている。

やさしさ優先モデルへの批判
 次に、明確に批判の対象とされている訳ではないが、折りに触れ自由なスタイルで批判されているもう一つのモデルがある。それはいわばやさしさ優先型とでも名づけうるようなモデルである。それはハーバーマスのような特定の構成者をもたない。このモデルの信奉者は今日の日本の若者たちのあいだにとりわけ広がっている。だが若者たちだけではない。数多くの親たちは我が子を傷つけないよう、そしてそのことで自分も傷つかないよう、いつもはらはらしている。やさしさ優先モデルは強いけん引力または拘束力をもつ。これにけん引された当事者は、実際には制度上対等でないにもかかわらず(親子、師弟関係)、あるいは状況的に対等でないにもかかわらず(友人関係)、相手が対等であるかのように振る舞おうとする。それは、上下関係が存在すると、下位に置かれた者はそのことだけで自尊心を傷つけられると信じられているからだ。だから相手を傷つけまいとする当事者は、常に相手を対等者として扱うよう命じられているのである。やさしさへのこの強迫的なこだわりのために、やさしさ優先モデルの信奉者は、相手とのコミュニケーションをかえって表層的なものにとどめてしまう。 
 この種のコミュニケーションのモデルへの批判は、合意形成モデルへの批判と性質を異にする。後者の批判は、コミュニケーションの多様性への目配りを妨げるという、モデルの認識補助機能の弱さに向けられている。これに対して、やさしさ優先モデルへの批判は、やさしさがすべてであると思わせてしまう、モデルの価値独占機能の強さに向けられているのである。

2つの事例から
 本書では、これらのモデルが当てはまらない事例が豊富に取り上げられている。これらの事例の中から2つを選ぶことで、本書の特徴を示したいと思う。
 第1は、対話の暴力とでも名づけうるような事例である。1950年、長らく旧ソ連に抑留され帰国した日本人の一部が、帰国の遅れは日本共産党書記長の徳田球一がソ連に対し「反動思想の持主は帰すな」と要請したからであるとして、真相究明の請願書を国会に提出した。確かに、収容所でソ連側将校が、いつ帰れるかという捕虜側の問に答えて、真正の民主主義者としての帰国を期待する旨の徳田の言を引いたことがあった。これを通訳したのが菅季治である。彼は参議院の特別委員会に喚問され、「徳田要請」を巡って証言を求められた。菅としては将校の言葉を通訳しただけであり、「徳田要請」があったかどうかに関しては証言できない、と答えるほかはなかった。ところが質問に立った委員たちは、質疑応答の流れを「要請があった」という方向へ導こうとする。たとえば「期待する」を「要請する」と訳せないか、といった質問がそうである。こうして質問は菅の個人的な思想・信条にまで及び、徳田を擁護しているのではないかと追及されるに至る。委員会の翌日、彼は「ただ一つの事実をさえ守り通しえなかった自分の弱さ、愚かさに絶望して死ぬ」と書き遺して自殺する(鶴見俊輔「2人の哲学者」)。国会は理性的対話の場であるはずなのに、この特別委員会は理性的対話の名を借りて証人を被告へと追い落とす暴力の場と化してしまう。対話と暴力とは相反するという常識に反して、対話は暴力の道具にもなりうるのだ。
 同じ文脈で、いじめのような暴力が対話の一手段でもあることが、別の章で論じられている。
 第2に、ライバル同士である2人の老彫刻家の友情の事例を挙げておこう(1995年のNHKスペシャルと齋藤孝によるそれの解説)。佐藤と舟越はある時は協会を作って共闘し、ある時は賞を競い合う。2人は近所に住んでいたが、めったに会うことはなかった。つまり互いに距離をとり、ベタベタした(やさしい)関係はなかった。しかし佐藤が過労で倒れた時、舟越は強烈な励ましの手紙を送っている。このあと舟越も脳梗塞で倒れたが、その時は佐藤が「お互いにさいごまで、のたうち回ろう。僕も後ろから、のたうち回る。息を引き取るまで」というエールを送っている。この事例を通して執筆者が主張しているのは、距離のないやさしさが、必ずしも友情の必要条件ではない、という点である。

「深さ」という課題
 最後にひとこと評者の希望を述べておきたい。本書はコミュニケーションの継時的変化をたどることを一つの課題として掲げている。その事例として夫婦間の力関係の変化が論じられている。「幅」という課題は確かに重要だ。だが「深さ」という課題もまた重要ではなかろうか。本書にもところどころで「深さ」についての言及はある。だが課題として追究されてはいない。本書の自由なスタイルに刺激され、評者は次の短歌を持ち出したくなった。「妹いもと二人心に触れて語り合いし/照る陽ひの庭の忘れえなくに」。上記はうろ覚えなので、正確ではないかもしれない。これは戦後まもなく書かれた檀一雄の小説に出てくる短歌である。このコミュニケーションの底は深い。コミュニケーションには「深さ」の諸層がある。その諸層間の差異がいつか課題になることを評者は待望してやまない。 


(さくた・けいいち=京都大学名誉教授)

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長谷 正人奥村 隆/編

2009年12月発売
四六判 , 344ページ
定価 2,420円(本体 2,200円)
ISBN 978-4-641-12392-2

遊び,笑い,喧嘩,恋愛など,従来の社会学やコミュニケーション論が十分に記述してこなかった相互行為の文化的豊かさを,さまざまな人間模様を描く事例から浮かび上がらせる,新しい社会学のテキスト。「社会とは何か」という問いへの新たな答えを探求する意欲作。

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